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口語短歌の創始者 鳴海 要吉 (なるみ ようきち)

 頼りにしていた東京の藤村の家には当時いろいろの事情があって住めず、藤村は友人の田山花袋に頼んで要吉を書生としておいて貰った。その後労務者になって働いたりしたが、健康を害して津軽に帰り、浪岡町吉野田の母の実家平野家に身を寄せた。
 1906(明治39)年4月まで平野家にいて、健康を回復した要吉は本腰を入れて教員になるため、青森師範学校第二講習所に入学した。在学中はエスペラントの勉強に夢中になった。早熟でひたむきに夢を追った少年時代からの性格を考えるとき、エスペラントを習得して国際的詩人になることを要吉はあるいは夢みていたのかも知れないのだ。
 1907(明治40)年4月、下北郡佐井尋常高等小学校に赴任した要吉は発信寺ほっしんじに下宿、のち品田家に移り自炊生活をした。つかの間だが要吉の平安な時代だった。
 同年弘前の佐藤キサと結婚、下北郡東通村田代小学校に転勤した。ここは本さえ手に入らないひどい僻地へきちで、校長も教員も要吉が一人で兼ねていた。生活は貧乏のどん底だが、村を取り巻く海は四季の変化に富み要吉の創作意欲を刺激した。そして自分で考え抜いた末に、鳴海要吉の口語歌の発想は生まれ形づくられていった。

   磯がある
     松原がある
   寺がある
       ああこの愁いどうしていいか

 要吉が初めて発表した口語短歌である。中央でもぼつぼつ口語短歌が見え始めた時代だった。
 下北の教員時代に創作した口語短歌に対する要吉の情熱は目をみはるほどだった。
 1907(明治40)年4月からの2年間、漂羊ひょうようのペンネームでたくさんの口語短歌を何回にも分けて東奥日報に発表した。中でも1909(明治42)年の「半島の旅情」には次の歌がある。

 あきらめの旅ではあった
   磯の先の
     白い燈台に
       日が映(さ)して居た


 本州の果ての下北に来た要吉の心情を知る歌として人々の胸に残ることになった。
 佐井村の願掛岩がんかけいわには要吉の歌碑が建っている。1962(昭和37)年村が建てたもので、その碑文が素晴らしい。
 「わが国の文学史上、忘れることのできない優れた新しい短歌を数多く残された鳴海要吉先生は明治42年3月当時佐井小学校に赴任され(中略)村の人々と村の風景を深い愛情をもって歌われました(以下略)」
とあり、青黒い北の海を背景にした岩の上の歌碑にはいつ見てもつたの葉がからまっている。

   あそこにも
     みちはあるのだ
   頭垂こうべたれひとひとりゆく
         猿がなく浜

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