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口語短歌の創始者 鳴海 要吉 (なるみ ようきち)

 その夏、島崎藤村が「若菜集わかなしゅう」を出版した。藤村が仙台でまとめた第一詩集で詩壇に新生面を開いた抒情詩じょじょうしである。

   まだあげめし前髪の
     林檎りんごのもとに見えしとき
   前にさしたる花櫛はなぐし
          ある君と思ひけり


 「初恋」という題のこの詩をよんだ要吉は、感動で胸がふるえた。東京から連れ戻され悩むばかりだった彼は、「若菜集」に触発され、自分の進む道はこれしかないと改めて決意した。
 1904(明治37)年、鳴海帆羊の名で処女詩集「乳涙集」を弘前から出版した。「乳涙集」の詩はリズムも内容もどこか「若菜集」に似かよっていた。

藤村との絆(きずな)
 要吉が島崎藤村と心のきずなをもったのは11歳、藤村に初めて手紙を送ったのは19歳だった。
 要吉があこがれの藤村に会う機会が、とうとう来た。所用があって北海道に渡るから会いたいという電報を受けたのである。
 1904(明治37)年夏、青森市安方の塩屋旅館で、陸奥湾を飛び交うかもめの群を見ながら、藤村、要吉、雨雀の3人が語り合った。多感な文学青年雨雀と要吉が藤村に会って胸に去来したものは何だったろう。藤村はこの二人の青年のことを短編にモデルとして取り上げている。

 
 同じ年要吉は黒石尋常高等小学校に代用教員の職を得た。
  1905(明治38)年、要吉の「人うる歌」54首が10回にわたり東奥日報紙上に載った。
 「吾が胸の底のここ」という題で、恋人に対する烈しい感情を表現したものである。作品は県内の歌人を驚かせたが、反響は賛否両論さまざまだった。
「吾が胸の底の茲」を発表して間もなく、藤村のところに行って手伝いをすると家人には告げ、教員の職をやめて家を出た。要吉2回目の家出というべきか。詩集「土にかへれ」には次の1首がみられる。

   をとめなる
     君にむこ
       つくろへる
         さへ見れどまことと思へず

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