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口語短歌の創始者 鳴海 要吉 (なるみ ようきち)

 ある時、兄から借りて読んだ「文学界」で古藤庵ことうあんという人の詩に、要吉はいままで経験したことのない感動を覚えた。古藤庵は若き日の島崎藤村のペンネームである。この後すっかり古藤庵のとりことなった要吉は自分も詩を作り始めるようになったのである。

  

実らぬ恋
 1895(明治28)年、要吉の家が商売に失敗した。そのため要吉は高等小学校を退学しなければならなかった。父はいやがる要吉をむりやり弘前の小間物屋に奉公に出したが、たった2ヵ月いただけで逃げ帰った。
 家業の手伝いをしながら詩や文章を書く少年要吉の胸にはこのとき忘れることのできない初恋の人があった。
 恋の相手は筋向かいに住む士族で厳格な家のひとり娘だった。商家である要吉の家とは交際の機会も少なく、門を出入りする少女の姿に胸を熱くするばかりだった。あるとき恋文を3日続けて少女の門の前の雪に埋めて待ったが、返事はもらえなかった。失恋の苦しみを詩や歌に託し、帆羊はんようのペンネームで東奥日報に投稿、掲載されたのは、しばらく年月を経てからだった。

   春の水流れ流れてゆく末は
     君が胸にもみやしぬらん
   この 年そば近くありことばさえ
     かけがたかりしわれをしれかし


などと率直に恋心を表現して話題を呼んだ。
 1897(明治30)年、15歳の4月、要吉は1回目の家出を決行した。家の商売の失敗、友人がみな上級学校に進みひとり孤独の立場になったことなど原因はいろいろだが、何よりも東京に出ればなんとか文学修業の道はひらけると思ったのだろう。要吉の家出をいち早くかぎつけて後を追ってきた母親を振り切って、川部までひた走りに走って汽車に乗ったのである。
 東京では県出身で後に代議士となった工藤鉄男に救われ下宿屋の配膳はいぜん係をしたが、間もなく日本橋の足袋たび問屋に移ったところを、長兄に探し出され黒石に連れ戻された。15歳にして味わった挫折ざせつである。

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