ホーム文化財・遺跡>鳴海 要吉(1/6)


口語短歌の創始者 鳴海 要吉 (なるみ ようきち)

雨雀と要吉

      いのちあって
         迷わぬものはどこにある
      あれあのとおり
           雲さえまよう



 黒森山浄仙寺後ろの文学の森にある要吉自筆の歌碑である。

 鳴海要吉、黒石という北辺の地に生まれ、口語の短歌をはじめて考えて創作し、31文字を3行とか4行に書くことを試みたり、エスペラント(万国共通語)にったり、ローマ字詩歌集「土にかへれ」を出版するなど、その当時としてはなかなか勇気のいる仕事をした人である。しかも失恋、不遇、貧困と闘いながら自分の求めるものに立ち向かい、その意志を死ぬまで貫き通した。そのため余り報われることもなく、一生涯を貧しく薄幸に送ったのである。
 要吉が世を去って30年、黒石市出身のこの口語歌人の研究をする人も増え、評価はますます高くなるばかりである。
 黒石市史にはこう書いてある。「黒石文芸史上もっとも早く近代的自覚をもって文学に対した文学者としてあげることのできるのは、秋田雨雀、鳴海要吉、丹羽洋岳の3名である。」
 では鳴海要吉の生誕、生い立ち、人物、そして文芸活動のさまざまを追ってみよう。
 1883(明治16)年黒石市横町に生まれた要吉は、黒石近在でひろく知られた商家「鳴三)」の5男である。父は俳句などを作った趣味人、母は信仰心の厚い内気な女性だった。
 要吉が小学校2年生の時だった。事情があって家が横町から前町に移った。前町には近所に秋田雨雀の家があり、偶然にも2人は同年生まれだった。
 雨雀、後に劇作家、詩人としても有名なこの人物は、要吉の文芸活動にいろいろ影響をあたえ、雨雀も要吉からはずい分学ぶことが多く、2人は終生の友人でありまたライバルでもあった。
 要吉の父鉄太郎は、当時としては自由な思想の持主で、1877(明治10)年にキリスト教に改宗したり、家の一部屋を宣教師に貸し、長兄と3番目の兄は熱心なキリスト教徒となったり、とにかく近所では変わった目で見られた。
 要吉はキリスト教にはあまり関心がなく、祖母と墓参りなどをよくした。このことから考えると、要吉は幼い時から自分の意志をまげず、はっきりした行動をする人だったといえよう。
 何事にもませた少年で11歳の時、俳句を作った。
 3番目の兄要助は画家志望の文学少年だったが、この兄がよく読んでいた「少国民」や「女学雑誌」を要吉は借りて読みふけった。

(1/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る