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真実を求め続けた良心的存在 秋田 雨雀(あきた うじゃく)

そして子供の心を失わないすべての人類に向かっての文学である」という説と相通ずるものがある。
  雨雀は「大人自身の子供の性質」を
永遠の子どもEternal childhood」と表現した。
 また、「永遠の子供とは何であろう?」と自問し、4つの性質をあげる。

  A どこまでも発達して行こうとする性質
  B 自由でありたいという欲望
  C 美しいものを愛する感情
  D 正義を愛する心


 さらに、「“永遠の子供”の持っている最もいい性質は、美しいものと、正しいものとを一元(同じ根をもつもの)にしようという欲望である。」と主張した。
 雨雀自身が「むしろ大人に与えるために書いた」とする童話に「太陽と花園」(大正9年「婦人公論」掲載)がある。
 親ゆずりの菊畑を持っていた主人が、他人の意見やうわさに流されて、菊づくりをやめてコスモスを植えては失敗し、今度はダリヤにしようか、大根にしようか、それとも桑にしようかと迷い、ついには元の菊を植えることに決めたが「醜い小さな花」ばかりになったという筋である。最後は次のように結ばれている。「太陽はある日『人間というものはどうして自分自身の考えを尊ばないのだろうね?』とお月様にお言いになりました。奥様のお月様はただ笑っておいでになりました。」
 雨雀自身、童話の中で追求した「美しいものと正しいものとを一元に求める永遠の子どもの心」を心として、79年を生き貫いた純粋なヒューマニストであった。
 1950(昭和25)年といえば、平和が日本の国土によみがえったとはいえ、講和条約はまだ締結されておらず、政治的にも経済的にも社会的にもまだ混沌の時期であった。人々は貧しく、食うのに精いっぱいの生活をおくっていた。しかし、人々は明るかった。民主日本をつくっていこうとする夢と希望があった。お腹(なか)は空いていたが新しい文化の創造に胸を燃やしていた。童話作家の間でも「新しい児童文学の創造と普及」を目的として日本児童文学者協会を発足させていた。雨雀が小川未明の後をついでその二代目の会長となったのが昭和25年、雨雀68歳の時である。
 そして、日本児童文学者協会の第1回「文集コンクール」に入選したのが、黒石小学校4年5組の学級文集「みつばちの子」(指導者 鈴木喜代春 昭和27年東洋館より出版)であった。鈴木喜代春は田舎館村出身で現在は日本の代表的な児童文学者の一人として中央で活躍しており、「十三湖のばば」、「津軽ボサマの旅三味線」ほか多くの作品がある。
 「みつばちの子」は、彼が子供達と毎日続けた手紙の交換(「おたよりちょう」と呼んだ)の中から生まれた詩や作文によってまれた文集である。雨雀は「自分が60年前に学んだ郷里の小学生たちの書いた、“みつばちの子”という作文集を読んで強い感激をうけた。いや感激というのはあたらない。太い棒きれで鼻のつらをなぐりつけられた感じでした。」と、鈴木喜代春に書き送った。

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