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真実を求め続けた良心的存在 秋田 雨雀(あきた うじゃく)

 エスペラントは19世紀末、ユダヤ人のラザロ・ザメンホフによって考案された人造語である。
 ザメンホフは北ヨーロッパのリトアニアという国に生まれた。リトアニアは北海道よりひとまわり小さい国なのにユダヤ人、ポーランド人、ロシア人が住んでおり、それぞれ違った文化・習慣を持ち、それぞれの言葉を使って生活していた。人々は小さい国の中でお互いに連帯感もなく、不信の中にいがみ合って暮らしていた。そのような中で、ザメンホフは「世界を一つのことばで結びたい」と考えた。多くの苦難の末、彼は覚えやすく、話しやすく、美しい国際語としてエスペラント(希望の人という意味)を考案したのである。1887(明治20)年彼は最初のエスペラント学習書を世に出し、多くの人に受け入れられていった。
 エスペラントの普及は、やがて日本にも及び、1906(明治39)年、日本エスペラント協会がつくられた。
 さて、エスペラント運動家で盲目の詩人エロシェンコは大正3年、東京の盲学校でマッサージの勉強をしようとして日本にやって来ていた。
 演劇巡業の失敗から深い絶望におちいっていた雨雀が、自宅近くの鬼子母神の森を夢遊病者のようにさまよっていたとき、偶然、同じ森の中を散策していたエロシェンコと出会った。
 雨雀は、その青年が盲目だとわかると急に親近感を覚え話しかけた。故郷にいる年老いた盲目の父を思い出したのであろう。森の中の切り株に腰をおろして二人は長い間話し合った。
 雨雀はエスペラントについて深く感銘するとともに、エロシェンコが盲人でありながら、世界のエスペラント運動のために熱心に働いていることに感動した。雨雀はすぐにエスペラントの勉強を始め、三月ほどでほぼこの言葉を会得した。「私はこの言葉を知ったお陰で人生を別な目で見ることが出来た。」と、雨雀は後に回想して語っている。
 雨雀は戯曲や童話の創作を続けながらエスペラントの講習会でエロシェンコの通訳をしたり、自らエスペラントについて講演したり、エスペラント語講習会の講師になったりして多忙の日々をおくることになる。1923(大正12)年には「模範エスペラント独習」を小坂狷二こさかけんじと共著で出版した。また、日本のザメンホフと言われた高橋邦太郎(黒石町出身)などと共に毎年のように帰郷しエスペラントの指導普及に努めた。大正13年には「黒石エスペラント会」が高木岩太郎・鳴海完造・三浦元三らによって設立され黒石のエスペラント熱は大いに高まり、翌14年には県下エスペラント大会が黒石で開かれるほどであった。
 もともと平和を求め人類愛とともに生まれたエスペラント語であり、政治的な主義・主張とかかわりのないものであったのに、社会主義運動との関連から昭和6年(満州事変おこる)ころよりエスペラント運動にも弾圧が始まり、その運動は弱まっていく。

 雨雀の創作の中で一番多く書かれたのは童話で、130編を数える。
 童話は形としては「大人が子供に読ませるもの」であるが、雨雀はもう一歩見方をひろげて「大人自身の子供の性質」に読ませるものだと主張した。この説は、「赤いろうそくと人魚」 「野ばら」の作者小川未明の「私は童話なるものを独り子供のためのものとは限らない。そして子供の心を失わないすべての人類に向かっての文学である」という説と相通ずるものがある。この説は、「赤いろうそくと人魚」 「野ばら」の作者小川未明の「私は童話なるものを独り子供のためのものとは限らない。

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