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真実を求め続けた良心的存在 秋田 雨雀(あきた うじゃく)

 新しい演劇は人間の本性即ち多くの欲望・苦悩・希望や社会のあるがままの状況を舞台に再現しようとしていた。小山内薫は、特に、西洋の近代演劇の祖と言われるイプセン(ノルウェー・1828〜1906)の研究に力をそそぎ、島崎藤村、田山花袋、柳田国男たちとイプセン研究会をつくった。イプセンの有名な戯曲「人形の家」は、古いしきたりに反抗し、人間の自由をもとめる新しい女性の姿を描いたもので、世界各国で話題になり上演されていた。雨雀は、このイプセン会の仕事によって戯曲創作に興味をもち、小説家より戯曲作家、演出家としてすすんでいく。
 雨雀の戯曲が最初に上演されたのは、1911(明治44)年「自由劇場」の第四回公演のときの「第一の暁」であった。この劇は、バテレン(キリスト教の俗称)の“大きな暁の知らせを持ってきた”青年が、その思想が受け入れられないままに、狂い、世を呪って人を切り、ついには友人の手によって討たれて死ぬという筋で、新しい考えを受け入れることができなかった封建社会に対する呪わしい思いがみなぎっている舞台であった。 
  「第一の暁」に続いて雨雀は「権三ごんざの死」「うずもれた春」などを発表し、戯曲作家としての地歩を固めた。1913(大正2)年ころから雨雀は、単なる戯曲家ではなく、演劇人として舞台監督や興行の仕事もするようになっていった。
 「埋れた春」は、1914(大正3)年沢田正二郎らと結成した「美術劇場」の第一回公演で上演された。
 春浅い東北地方のある小都市。土着の薬種商やくしゅしょう(薬を調剤して販売する家)と移住してきた税務署長の家とは隣同士でありながら仲が悪い。両家の使用人の間にも激しいあざけりの言葉が投げかわされている。
そうした大人の世界のみにくく無意味な争いをよそに、12歳の薬種屋の息子と14歳の税務署長の娘との間には淡い恋が芽生えていた。
雀の子を追い土蔵の中に入った少年はあやまって薬つぼに落ち、驚いた少女はその後を追う。舞台はしばらく空虚なまま、二足のげたを夕陽が照らしている。詩情豊かな作品であり、その後もしばしば上演されている。
 雨雀は90編の戯曲を残しているが、その中で特に「国境の夜」は菊池寛の「父帰る」などとともに大正時代の戯曲の代表作として、日本演劇史に特記されるものである。
 雨雀の演劇生活は精神的にも経済的にも苦難の多い道程であったが、周辺にはいつも彼を師と仰ぐ若い演劇青年たちがいた。第二次大戦後、1948(昭和23)年請われて「舞台芸術学院」学長となる。66歳のときであった。
 1915(大正4)年のころ、雨雀は演劇巡業に失敗し、精神的にも経済的にもゆきづまり、苦難のどん底にあえいでいた。その雨雀に光明をもたらしたのはワシリー・エロシェンコとの出会いであった。
 エロシェンコ(1889〜1952)は今のソ連のウクライナ共和国に生まれた盲目の詩人であり、熱心なエスペラント運動家である。


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