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真実を求め続けた良心的存在 秋田 雨雀(あきた うじゃく)

 また、玄庵は俳句をたしなみ、「心眼しんがん」と号した。雨雀は盲目の父のために、医学書を読んでやったり、父の作る俳句を代書してあげた。雨雀は後年その『自伝』に「父の俳句は私の代書したものだけでも数千句に及んでいる。」と書いている。

  人さしをわがてのひらにおしあてて
         文字を教えし父のなつかし


 盲目の玄庵が膝に我が子を抱き、小さな手のひらに文字を書いて教えたのであろうか。あるいは俳句の代書をしていて、わからない言葉がでてきたとき、少年雨雀の手のひらにその言葉を書いて教えたことを懐かしんで作ったのであろうか。 
 雨雀は生涯幅広い創作活動をしたが、最初の出発は、詩人としてであった。詩集「黎明れいめい」はその記念すべき最初の本である。1904(明治37)年雨雀22歳、まだ早稲田大学英文科3年生のときであった。その4カ月前に、日露戦争にちろせんそうがおこっていた。
「黎明」には物語詩や人生の哀歓あいかんをうたった抒情詩にまじって「剣」 「戦いの後」二篇の反戦詩があり注目される。
「戦の後」は、すさまじい戦の後に、ともに傷つき倒れた敵と味方の二人の兵が、戦争は大変な過ちであることを悟り、自分の水筒の水を敵の兵に与えるという内容である。その一節、
    月影清つきかげきよ水瓶みずがめ
    うれしやてきの口にあり
    いかに感謝 に飲みしぞや
    いかに恥辱ちじょくに死せしぞや
    悲しや見れば武夫もののふ
    血汐ちしおにあびて倒れたり
           ・・・・・・・・・・・・

 与謝野晶子の「君死にたまふもうことなかれ」は反戦詩として有名であるが、雨雀の詩はそれに先立って作られている。また、偶然にも上北町出身の詩人大塚甲山おおつかこうざんも同じ年に反戦詩を発表している。
「黎明」は、友人鳴海要吉を通じて明治の代表的な文学者島崎藤村(しまざきとうそん)に送られ、「末頼すえたのもしい人」(返書)として、その後親しくつきあうことになる。
 雨雀の詩集は『黎明』一巻のみであるが、生涯、詩への愛着をもち続け創作していた。
 雨雀が小説を書き始めたのは35歳のころであるが、最初から作品の新鮮さが注目され新進作家として認められた。1911(明治44)年、29歳のときに出版した「幻影と夜曲」にシェークスピア研究で知られる坪内逍遥つぼうちしょうようは次のような序文を寄せて雨雀の作家としての資質をたたえている。
「新しき人雨雀君は作られたる新しき人にあらずして、生まれたる新しき人なり」
 しかし、雨雀の創作熱は小説から戯曲へと転換していく。
 早稲田大学を卒業した雨雀は島崎藤村の世話で小山内薫が主宰して始めた文芸誌「新思潮(第1次)」編集の手助けをすることになった。
 小山内薫(1881〜1928)は日本の演劇を新しいものにしていこうと考えていた。
 当時、日本の演劇は江戸時代全盛を極めた歌舞伎かぶきが主流であった。歌舞伎は現在でも日本の伝統古典芸術として、世界に誇れるものであるが、明治維新以後、政治、経済、社会あらゆる面で近代化が急激に行われるなかで演劇もまた見直され、新しい演劇が模索もさくされていたのである。

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