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へき地教育の母 クララ 川村 郁(かわむら いく)

 後にどうやら快復した時期があったので、黒石カトリック教会が経営する「善光寺平保育所」の保母として勤めた。しかし、病気は徐々に体をむしばんでいた。自分でもそれは知っていたが、最後まで善光寺平の人達のために献身しようと心に決めていたので、病気のことはひと言も言わなかった。亡くなる直前に下山し黒石病院に入院したが手遅れった。弘前大学附属病院で治療していた時、たまたま同病院に入院していた植村環うえむらたまき(日本キリスト教女子青年会指導者)は、病気が快復して退院する際、病床の川村郁を見舞い和歌を贈って激励した。

 急がずばぬれざらましを旅人の
           後より晴るる夏の村さめ


 夏のにわか雨は、雨やどりをして待っていれば必ず後で晴れてくるものだ。つらいけれども焦(あせ)らずにがまんしていれば、必ず治るからがんばってほしいという意味である。
 この心境はクララ川村郁を取り囲むすべての人達の願いでもあった。しかし、母や弟妹、ジョリコール神父に見守られて息を引き取ったのは、1962(昭和37)年11月27日。最後まで笑顔をくずさなかった。
 クララ川村郁の死は、善光寺平の人達にとってはあまりにも大きな損失だった。へき地教育に火をともし、厳寒と貧困に悩む開拓者と共に生きようとした「へき地教育の母」の業績は教育界にとっても大きな損失であった。
 クララ川村郁は柵ノ木の墓地に眠っている。

 (執筆者 白戸順一郎)
 

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