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へき地教育の母 クララ 川村 郁(かわむら いく)

 セーターが2枚しかないので寒さが厳しい夜など足りないだろうと、毛糸を持って上がった。しかし16人の中で手袋を持っているのはたったの4人。あとの12人は手袋をはかず冷え切った手をポケットや袖につっ込んで通学して来た。この子らに手袋もはかせずに、自分だけぬくぬくとセーターを作ることができようか。これを見てからすぐ手袋作りに取りかかった。2本指の手袋を暗いランプの下でせっせと編んだ。1日も早くはかせてやりたい一心で、ランプの油が切れるのも知らず編棒を動かした夜もあった。全員頭文字の入った手袋をして登校して来るのを見たとき、セーターを1枚多く着るよりも温かい感じだった。
 毛糸のズボン下3枚はいても寒いのに薄いズボン下1枚はき、お尻(の見えている子もいた。この子はどんなにつらい思いでこの寒さに耐えているのだろうか。母に頼んで妹のお古のももひきを送ってもらった。
「好一君、これはきなさい。」と言って持たせてやったが翌日はいて来なかった。聞いてみたところ母ちゃんがはいたという。ふとんもなく家族全部がこたつに足をつっ込んで夜をあかすという貧しい開拓者の人々に同情せずにはいられなかった。
 手記はまだまだ続く。無医村のため夫や愛児を残して死んだ零細開拓者の妻。病に倒れたまま3日間も放置され発狂して死んだ教え子の母等、想像できないほどの寒さと貧しさの中で共に生活をし共に苦しみ悩んだ毎日が克明に書き残されている。その度ごとに心を痛め力のいたらなさを嘆き、神に救いを求めたに違いない。
 川村郁は弘前カトリック教会の、フォールテン神父から洗礼を受けた熱心なクリスチャンでもあった。日曜日には自分が宿泊している場所を利用して、キリストの教えを説いた。このことが縁で善光寺平にはりっぱな教会ができたのである。開拓地に生きる一人としてくわを持ち、土地を耕したり部落の人の農作業を手伝ったりしながら教育に一生をかけた業績が、黒石カトリック教会のジョリコール神父によってカナダに紹介され、1963(昭和38)年ルイ・クパール賞が授与された。この賞は、カナダのモントリオールで神学校の教授をしてアジアの研究者であるルイ・クパール夫妻が、社会のために献身的に奉仕した人に贈っているもので、わが国では「蟻の街のマリア」の名で知られる北原怜子に次いで2人目である。賞状には「クララ川村郁さんの献身的な行為と克己こっきとは、心の高尚そのままであります。日本人のクララ川村郁さんの偉大な献身的行為を認めて、この賞をお母様に贈ります。1963年11月1日、諸聖人の祝日」と書いてある。金メダルは直径6センチメートル、フランス語でその功績を刻んでいる。
 開拓地の教育に一生をささげようと決意した川村郁も病気を克服することができなかった。1957(昭和32)年2月から糖尿病と眼病をわずらい、後髪引かれる思いで学校を休み、弘前大学や神戸医科大学病院へと入院をくり返した。しかし病気はなかなかよくならず、1959(昭和34)年9月には退職せざるをえなかった。
 

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