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へき地教育の母 クララ 川村 郁(かわむら いく)

 細くけわしい雨の山道なので母は大変だったらしいが私は平気だった。この険しい道がこれから私の進んで行く道なのだ。これを克服していくのが私の義務なんだと、一歩一歩踏みしめながら山道を登った。道を曲がる度にひらける雄大な自然美に目を奪われながら登った。見渡す限りの広い根曲がり竹の群生を見た時、こんな未開発の原野があったのかと思うほどの広大な野原であった。
 大道路を500メートルも歩いたろうか。はるか前方の雑木林の木の間越しに日の丸の旗がへんぽんとひるがえるのが見えた。
「ああ、こんな奥地にも日本人が住んでいるのか。人里離れたこの奥地がこれからの働き場なんだ。」と新たな感慨がわいてきた。
 集会場を改造して作った新校舎に「善光寺平分校」と書かれた墨痕ぼっこん鮮やかな校札のかかった学校があった。日章旗の外に笹の葉を集めて作られたアーチがすばらしく、紅葉した葉っぱを張りつけて“祝開校”と書かれていた。穴を掘り石を積んで作った原始的なかまどでは、祝宴のためのごちそうが大きな鍋でぐつぐつ煮立っていた。その周りには、とっておきの新しいエプロンをかけたお母さん達が20余人もにこにこしながら、新しく来たおなご先生を迎えてくれた。「まあまあ先生、こんな山奥までようく来てくださいました。私達はどんなにか先生のおいでになるのを待っていたか。……」と、涙をボロボロ流しながら言ってくれた。こんな人達と手を取り合って一つ心になって働けるのであれば、へき地の一人ぐらしも何でもないという安心感と、期待を裏切ってはいけないという重大な責任感が頭の中で交錯こうさくした。
   

 善光寺平の入植年度は1952(昭和27)年である。当時国や県では農家の2・3男に、山地の開拓をさせ食糧の生産をするようすすめていた。黒石市でも終戦直後の1946(昭和21)年に厚目内、高場、1951(昭和26)年に葛川平くずかわたい、次の年には青荷沢の開拓が始まっているが、平賀町では善光寺平のほか大木平等の開拓が行われていた。
 入植した人達は、補助金や山作業の収入、冬の出稼ぎ等の収入でやっとくらしを立てていた。冬は雪がとても深く、電気なしのランプ生活で、冷害続きや農産物の価格が下がること等により極めて貧しい生活だったので逃げ出す人も多くなった。
 善光寺平は早くから畑岡村(藤崎町)が分村入植を希望し、並々ならぬ力を入れてきたが、想像もできないような苦労が多く、冬が長く将来の見通しが暗いので次々と山を去る人が出たのである。

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