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へき地教育の母 クララ 川村 郁(かわむら いく)

 1955(昭和30)年秋、東奥日報紙上に、黒石市から38キロも離れた開拓地善光寺平の主婦達が、学校はあっても教師がいなくて困っていることが報道された。当時六郷第二小学校に勤務していた川村郁は、貧しい子らを教育する者は私のほかにはいないとひそかに思い、以前から胸の中にあったへき地教育への情熱を燃やし夢をふくらませた。病床に横たわりながら書いた「山の子らのために」という手記からも、その情熱や決意のかたさがひしひしと伝わってくる。

へき地教育への強い信念

 善光寺平に行くまでへき地教育の重要性を真剣に考えはじめ、「自分の弱い力ではとても完全にやれることはできないまでも、できる限りの努力と情熱で、恵まれない子ども達のために献身しよう。」と心に決め、母に話を持ちかけたのは昭和26年頃である。
 まだ教育界でも、へき地にやられる先生は成績の悪い人、事故を起こした教員と言われていたので母はこの話にまっこうから反対した。「何も事故を起こしたわけではなしの女の先生が、そんな山奥の開拓地へ行ったら世間の人はどう思うの。川村の娘が何だってまた山奥へ行ったのかと、疑いの目で私を見るだろうと思うと肩身が狭くて町の中を歩けない。」と、理解あるいつもの母に似ず冷たい返事だった。母にしてみれば、娘の身を案じたあまりに出た言葉であろうし、一家の経済的な柱であった私にそんな辺地に行かれてしまったら何か頼り気ない不安な気持ちであったのだろう。機会ある毎に恵まれない子ども達のことを話してやっても、この話にだけは耳を傾けようとはしなかった。「母さん、私、学校にいて事故起こしたことある?悪い教員であったかどうかは村の人達に聞けばわかるじゃないの。へき地へ行ってうんと働き、子ども達が少しでも幸福になり、開拓地の人達のためになったらそれでいいじゃないの。世間の噂が恐ろしいの、肩身が狭いだのと言ったって、それは時が解決してくれるんだから。」と必死の説得をした。へき地へ行きたい娘とやりたくない母との水かけ論は3年も4年も続いた。

 1955(昭和30)年の春、ようやく母の腰が折れ、「それほどまでに行きたいのなら行きなさい。しかし行ったら必ずがんばれるだけがんばらなければだめ。長くはいないで3〜4年ばかりいたら下へ降りてきなさい。」と言ってくれた。「3年で何ができるかしら。自分では最低5年、できれば一生涯そこで生活してもよい。」と心の中で決めていたのに3年で帰れという母。でも3年だけは行ってもよいと許しを出してくれるまで相当悩んでのことであったろうし、大きな決心をしての許可だったことを思うと涙の出るほどありがたかった。

最初の日
 1955(昭和30)年10月22日。この日は私にとって一生涯忘れることのできない感激の日である。
 朝から冷たい秋雨が降っていた。母が「どんな所かこの目で確かめないうち安心できない。」と、山登りのためにモンペをはいて同行してくれた。黒石発一番のバスで2時間半。温川で下車して5、6人の迎えの人に案内されて道の左側に入った。


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