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郷土の博物学者 佐藤 雨山(さとう うざん)

 雨山が好きなことばかりやっているので、ヤマウの家も傾きだし、とうとう前町を売り払って浜町へ引っ込んでしまった。それでも妻ハツは、愚痴ぐちひとつこぼさず呉服店の仕立物したてものをして四男一女を育てた。二男哲男は、昆虫に興味をもち、東京目黒の林業研究所に入って研究を続けたが、第二次世界大戦で戦死した。雨山は自分の研究を継ぐものとして期待していたであろうから、その落胆も大きかったものと思われる。子供たちは、父から何かしてもらったということはないが、父に頼らず独立していけという無言の教えをもらったと思っている。
 雨山は郷土史はもちろんのこと植物、なかでも薬草にくわしかったが、昆虫・野鳥についてもよく知っていた。版画の話をし、詩も書いた。弓矢を自ら作るなど、あらゆることに興味をもち、それをとことん突き詰めないと気がすまなかったという気性の持ち主であった。しかし、植物を写す時のガラス絵は成功しなかったものの一つである。このような関心の幅は、まさに博物学はくぶつがくである。博物学は、地球上のあらゆるものへ知的好奇心をもち、ものを見る技術を高めていくもので、リンネ(1707〜78)の分類学や、ダーウィン(1809〜82)の進化論がこれにあたる。日本では植物好きな薩摩さつま藩主島津重豪しまずしげひで(1745〜1833)や、植物図譜を出版しようとした平賀源内(ひらがげんない)(1728〜79)がいる。
 明治からの学問は、対象を幅の狭いものにし、原理からはずれたものや心霊現象などを苦手としてきた。そこには学ぶ学問はあっても、楽しむ学問は忘れられていた。雨山は自分の研究は郷土愛であると『勝地浅瀬石川』で述べている。
 自分は学者でもなければ専門家でもない。た郷土愛に炎ゆる一介の貧乏商人である。生来自然界が大好きで、やもすれば本業を次にして山川草木と親しみたがる。数年前から又郷土史に深い趣味を持つうになった。ところが元来、見解が浅く学識が足らず、又文がつたなくしてが期待を実現せしむる事の出来ないのを遺憾いかんとするのである。しかし自然を愛し郷土を愛する点にいては強い自信がある。
 雨山は酒もたばこもやらなかったが、晩年、腎臓をわずらっていた。1959(昭和34)年、柴田女子高等学校で授業中、脳内出血で倒れ、10月1日他界した。67歳であった。教えを受けた黒石郷土史研究会と黒石文学連絡協議会の人たちは、1966(昭和41)年、雨山がこよなく愛した黒森山の浄仙寺(黒石市南中野)境内に文学碑を建てて、雨山を偲んだ。碑文は、詩集『津軽野草図』によった。

  

   キバナノコマノツメ
                 雨山

   翡翠ひすいを刻んだ品のよい葉
      エメラルド のうてな
   黄玉おうぎょくをちりばめた
      美しい可憐かれんの花びら
   全く宝石 細工の植物だ

 
 (執筆者 篠村正雄)

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