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郷土の博物学者 佐藤 雨山(さとう うざん)

七五三縄しめなわを張った台にこれをのせ、行列をつくって相沢家へのりこんだ。家族が面喰らってうろたえているのにかまわず産室に入ると、アカネコと呼ばれる加藤祥文かとうしょうぶんがふところから祝詞のりとを出して「高天ヶ原たかまがはらに雨が降り……神かけ神かけ申さく……」
としかつめらしくひとくだり読み上げてから、雨山が秘蔵の弓をビンビンと鳴らし、一同がひきあげた。ところが一週間もたたないうちに、この式の効果もなく子供が死んでしまった。これにはさすがの村民も困ってしまい、葬式の時は村葬にするなどの出しゃばりをせずに謹んだという。

郷土史研究家として
雨山と山野を歩いた想い出を、柴田久次郎は、『ゆりくれない』の中で次のように述べている。
 雨山氏に引率されて、堅雪をって櫛ヶ峰を踏破とうはした記憶はまだこの間のように鮮明です。正規な学校を出たわけでもなさそうだが、どこであんなによくも知識を貯えたものだと驚くほど博学でした。長坂山の鱈がしらの草山が、畑の畦跡のようにすじ立っているのを、先住民の略奪農耕の跡だと教えてくれたのも雨山氏であり、手ごろの石がそこここに散在していると、ストーンサークルだとか、石ころが3、40もかたまっていると、ケールンだとかいって先住民族の遺跡だということや石のやじりをといだ跡など、遠い未開の祖先の生活に、果てしなく想像の翼をかりたてさせてくれたのも先生です。
 もの好きで、村へゆくとその土地の老人に話を聞いた。昔がどうであって、今どうなっているのかを尋ね、聞き書きしたものを民話として残した。雨山が書き留めないと、忘れられていく話であり、先祖の貴重な遺産となっている。それまで黒石の歴史は、津軽信英が弘前より分家してからのことばかりであったのを、原始時代から始まることを紹介してくれたのも雨山である。山岳会の人たちも植物から郷土史へと関心を拡大し、黒石郷土史研究会と組織を改めた。
 自らもがむし(黒石市温湯)の絵を上手にかいて、どこどこに山賊がいてどうしたという説明をする。

*→上が我、下が虫
話があまりにもおもしろくて、本当にあった話かどうか疑問に思ったという生徒もいた。ある時は、授業中に、「あの山のあれ。」と、何かを想い出した。すると教室に生徒を残したまま、一人で山へ出かけてしまったという。
 歯にきぬをきせずに話をするが無欲に徹した。浪岡町北中野にある墓を、南北朝の長慶天皇陵ちょうけいてんのうりょうとして証明してくれれば、お礼はいくらでも出すという依頼は、がんとして首を縦にふらなかった。『黒石風土記』を出版するにあたり肖像写真を入れようとしたが、「やっぱり入れない方がいい、入れたとて何んにもならない。私は私の名を売ったり、顔を売るために本を書くのでない。しも私の写真を入れるだけの頁数ページすうを、紙数があったら、それだけ別な資料、内容をのせた方がましである。」
といっている。ここには、雨山の名誉や売名を嫌う姿勢がはっきりみえる。これは、黒石の人にみられる反骨精神のあらわれでもある。
 ある時、郷土史研究を志そうとする鳴海静蔵が雨山を訪れると、次のように言われたという。
「こうした郷土史だのやっていると、カマドコ(財産)すからやめろ。」
「先生、ちょうどカマド返したとこだはで。」
「それだばやってもよい。」

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