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郷土の博物学者 佐藤 雨山(さとう うざん)

「まみし村」のこと
「どんでもいい、まみしばいい。」
どうなってもよい、健康であればよいという意味の津軽弁で、きわめて楽天的な言い方である。「まみし」は、まめまめしいがなまったものである。
 雨山は、商売をそっちのけにして山野を歩きまわるので、大商家の屋台骨も傾いてきた。とうとう一階は、1929(昭和4)年にできた黒石消費組合に貸したため柴久(柴田久次郎の呼称)一家が住み、雨山の家族は二階に住むようになった。ここに、柴久が丸太小屋風の喫茶店をつくると、自然と常連ができていった。この人たちは、夜になると集まり、トランプをする。トランプに飽きると黒石の漫談(おもしろい話)に入る。談話のうまさは、雨山であり柴久であった。興に乗ると雨山夫人の琴に、尺八とバイオリンが加わり三部合奏が始まる。金はないが、いつも陽気な仲間が集まったので、誰いうとなくここを「まみし村」と呼ぶようになり、村長にはなんでも知っている雨山が推されてなった。
 次に述べる三話は、どこまでが本当かわからないほどおもしろいエピソードなので、この点を頭に入れて読んでいただきたい。
 雨山は、弓道もよくした。手先が器用で、弓、矢弦やづるも手造りであった。自称三段の腕前といい、広いかくじ(裏庭)に矢場をつくって、まみし村の村民にも稽古けいこをさせた。
 
ある年の春季大会には、紅白の餅をつくり、賞品を持ち寄ったまではよかったが、そこは歴史にうるさい雨山のこと、鎌倉武士の犬追物いぬおうものをまねて鳥追物を行うことにした。
 そこで、柴久の飼っているにわとりを小屋から放し、それを皆んなでねらって射た。たまらないのはにわとりで、叫びながら逃げまどい、最後に柴久の住居に駆けこんだ。柴久の婆様は烈火のごとく怒り、鳥追物の猛者もさたちもほうほうのていで逃げ出した。
  また、雨山は長坂山で発見した石製の矢じりをたくさんもっているので、これを矢竹の先につけて時々試射することがあった。前に述べた「トリカブト」の粉末も、この様な時に試したものかも知れない。ある年の春の初めに、盛りのついた猫が屋根の上でうるさくてしようがない。業をにやした雨山が日頃の手並みをみせてくれようと、秘蔵の鏑矢かぶらやをつがえ、弓を満月のごとく引きしぼって射た。確かに手応えがあったと思ったが、猫の悲鳴は聞こえてこなかった。ちょうどこの時、甲裏町(現在の浦町一丁目)の阿部そば屋の女房が前堰の端にしゃがんで小便をしていた。すると、ブーンと異様な音がして飛んで来たものが格子窓にグサと突きささった。驚いて家の中へかけ込み、翌朝、調べてみると弓の矢であった。そば屋のおやじは、「これあ、さずかり物だ。」
とばかり、縁起をかつぎ、この矢をうやうやしく神棚にあげ、さっそくこの日から屋号を「当り矢」と改めた。
 ある時、相沢三郎助笑坊えみぼう君というまみし村の書記に子供が生まれた。村の人口が一人増えたのだから皆んなでお祝いしようということになり、村民大会が開かれた。なにせ故事来歴こじらいれきにうるさい雨山たちなので、古式にのっとり「鳴弦めいげんの式」を行うことに決まった。鳴弦とは弓の弦を手で引き鳴らして妖気を払うまじないであり、天皇や貴人の誕生の時などに行われるものである。いくらかずつお金を出しあい、直径2メートルもある紅白の鏡餅を作った。

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