ホーム文化財・遺跡>佐藤 雨山(1/5)


郷土の博物学者 佐藤 雨山(さとう うざん)

生い立ち
 雨山は、1893(明治26)年6月1日、西谷彦太郎、むらの二男に生まれた。本名は耕次郎こうじろうであったが、屋号ヤマウをひっくり返し雨山と号した。秋田雨雀にならって雨も入れた雅号にしたという話もある。生家は前町49番地(現在の三上医院のところ)にあり、近江商人の流れをくむ呉服商、金物商であった。祖父西谷平兵衛は、黒石の大久保彦左衛門おおくぼひこざえもんといわれるほどのうるさ型で、町会議員を務めた。平兵衛の子供は、男子が彦太郎一人のみで、他は女子ばかりであった。この彦太郎を佐藤家の養子にしている。なぜ、そうさせたかをみていくことにする。
 日本国民の兵役義務を定めた徴兵令は、1873(明治6)年に出されたが、これによると、男子は満20歳になると徴兵検査を受け、抽選ちゅうせんによって軍隊に入れられた。しかし、一家の主人、養子、徴兵在役中のものの兄弟、罪科のある者のほか、代人料270円を納めた者は、兵役を免除された。このため、戸籍だけの養子縁組による徴兵のがれが可能であり、大いに利用された。
 よって、平兵衛が役場の戸籍係に戸主が消滅しそうな家を調べさせ、ここに彦太郎を養子に出したのは、徴兵のがれのためとみられる。後に彦太郎が西谷姓へ戻ると、彦太郎の二男の雨山が佐藤姓をいだ。しかし、住いは前町にあって生活はなんにも変化しなかった。雨山は、幼年時代から「道化どうけつくりで、おもしろいわらし」であったと、母親が言っている。このようにおどけてみせる子供であったところが、後に述べる「まみし村」に発揮されてくることになる。
植物採集の毎日
 祖父平兵衛が町堰沿まちぜきぞいに別荘(現在の東公園あずまこうえん)を造り、畑を耕し、草花を育てたので、家族皆んなが植物好きになった。ここで過ごしたことが、雨山を南津軽郡立農業学校へ進ませ、植物への関心を高めさせていったものと思われる。また、父彦太郎と兄順一郎は、この「黒石人物伝」(別掲、りんご界の進歩派・西谷彦太郎とその仲間たち)に載せられてあるように、りんご栽培研究の道を選んだ。平兵衛は、家業を継がず、りんごの研究に走った二人を自分の意にあわないと許さず、雨山を可愛いがった。
 ところが、雨山の植物好きは家業をほったらかして、身体から植物採集の用器の胴らんをはなさず、山野を歩きまわる生活を送った。そのうち、学校の教師などいろいろな職業の人たちがこの山歩きに参加するようになり、青荷温泉、黒森山、南八甲田山の櫛ヶ峰、岩木山へ出かけた。雨山は足が早く、付いていくのに骨がおれたという。途中、立ち止まって植物の話になる。
「これは薬草になるもので○○という。これは花が美しい。これは実がきれいである。」

(1/5)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る