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卓球会の恩人 松井 禮七(まつい れいしち)

 野口博士の生涯の恩人とされるのは、郷里福島県猪苗代町いなわしろまちの教師、小林栄先生と、英世が上京して身を寄せた高山歯科医学院教授で、後の東京歯科医学専門学校長の血脇守之助であった。その血脇学長が、松井禮七が東京を去るに当たって、野口博士から贈られた懐中時計を禮七に渡したのである。いかに信頼されていたかがわかる。
 この金側の懐中時計は現在、東京新宿の野口英世記念会が大切に保存している。松井家が記念会に期限付で貸しているのだが、黒石市にとっても記念すべき宝物といってよい。
好漢惜しむらくは、松井禮七、1946(昭和21)年7月6日、これからというときに59歳で急逝した。
 
 その松井禮七の遺徳を偲んで、「第1回松井杯青森県選抜卓球大会」が開かれたのは1948(昭和23)年である。会場は黒石実科高等女学校の体操場である。会場には松井先生の写真が飾られ、明本常丸先生の読経で三回忌法要が営まれたあと、試合は開始された。県内からは往年の名選手が続々と参加して見事な熱戦であった。戦時中、鳴りをひそめていた卓球熱が、この松井杯をきっかけに、待ってましたとばかり始動したのである。
 優勝カップにまつわるエピソードがある。
 「松井先生の卓球界に残した功績は大きい。それにふさわしい、一番でっかいものにしよう。」
 関係者たちはそう考えた。
鈴木寅之助(すずきとらのすけ)氏と棟方守貞先生の二人は、弘前の街中を朝から晩まで、足を棒にしてカップを探したが見つからない。なにもかも物がなかったころである。だが、松森町の馬具屋(ばぐや)をのぞいたらそこにあった。馬力大会の優勝杯として取り寄せたという高さ1メートルもある大カップである。
「これだ。」
 大相撲の優勝賜杯、あの大カップにも匹敵するほどのものだが、値段はなんと当時のカネで1万円であった。そのおカネは松井家のご遺族から寄贈されたのである。この優勝杯争奪戦は選手たちの大いなる目標となったことはいうまでもないが、あまりの大きさに持ち帰るのがひと苦労であった。手に下げて持つことができないから、背負っていったものだという。
 名物の大カップはいうまでもなく、別の優勝杯に代ったけれども、松井杯はいまも絶えることなく継続されている。そして松井禮七の残した卓球にかける情熱は多くの人たちに引き継がれ、全国はもちろん世界的な名選手が続々と登場して、黒石卓球の名を高めたのである。

 (執筆者 柴田黎二郎)

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