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卓球会の恩人 松井 禮七(まつい れいしち)

 尋常科じんじょうかに6台、高等科に2台、実科女学校に3台、計11台。これは女子部の分。男子部にも尋常科に6台、高等科に3台、計9台。そしてさらに卓球協会に2台と合計22台を寄贈し、自宅に備え付けの2台をあわせると、なんと24台を作ったのである。
 2台や3台ならまだしも、これほどの数である。福田校長ならずとも、本気にしなかったに違いない。金があるからといってできる芸当でもない。松井禮七のスポーツにかける情熱と心の豊かさをそこに見る。

 そのころ松井禮七は、帰省するたびごとに、鈴木寅之助すずきとらのすけ加藤一誠かとういっせい、山本康一、棟方守貞といった人たちを自宅に招いている。
 「黒石卓球50年史」(昭和46年4月から22回にわたって津軽新報に連載。筆者は棟方守貞氏)から、そのほほ笑ましいエピソードをってみよう。
 松井先生からの招集状は、自筆で雄渾ゆうこんな書体のすばらしいものであった。夕方になると、七兵衛サマの店員が、この大きな名刺を届けにくる。
「午後5時、夕飯を食べないで、バットを持ってお出でありたい。」
と書かれている。直ちに参上する。七兵衛サマの表2階の3部屋のふすまを外して卓球台を据え付ける。畳なので足の滑るのをがまんし、上の欄間らんまにボールの当たるのに気をつけると、結構、練習に差し支えない。ひと汗流してから、鍋焼なべやきうどんをご馳走ちそうになりスポーツ談議に花を咲かせる。松井先生は卓球ばかりでなく、庭球も相撲も一流だし、スキーもやった。夜の更けるのも忘れて、談じては卓球をやり、卓球をやってはまた語り合ったものである。
 松井禮七のこうした交流は、たんに卓球の技術を伝えようというものだけではないだろう。東京で医学を学ぶ間にも、黒石の町やふるさとの若い人たちとの心のきずなを忘れまいとする愛情から出たものと思う。


 松井家には野口英世博士の金時計がある。財団法人野口英世記念会によると、この金側懐中時計は1915(大正4)年、野口博士が帰国されたとき、血脇守之助ちわきもりのすけ先生にご恩を受けたお礼として贈られたもので、松井禮七教授が東京歯科医専を退職するにあたって、記念に感謝を込めて贈られたものといわれる。

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