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卓球会の恩人 松井 禮七(まつい れいしち)

 私が七兵衛サマにいたころ、もう一人、若旦那わかだんながいた。赤坂の宇野海作家から養子に入った人で、禮七という名前であった。彼は医学博士で、万能スポーツマンといわれていた。かつてヨーロッパに留学したとき卓球に興味をかれ、それを母校に持ち込んで、日本卓球界の草分けとなった人である。禮七は若いときから、相撲、柔道、弓道、卓球などに打ち込んだが、旧制八戸中学時代は100メートルの選手でもあり、その記録は長い間、破られなかったといわれる。
 そのうえ生まれつきの怪力の持ち主でもあった。私のいたころは、夫人と一緒に東京に在住し、大学の教授をしていたが、毎年、夏休みには帰省して、力試しに興じていた。その怪力ぶりは驚異的なもので、左右の足に米俵を一俵ずつくくりつけ、背中に一俵背負って歩ける人であった。
「まさか、両足に米俵をですか。」
斉藤さんの黒石市一番町の事務所を訪ねて念を押した。
「一歩、二歩と歩くんですよ。たまげてしまいましたね。」というのだ。
 聞くところによると、学生時代は大相撲部屋によく出入りし、十両力士といい勝負だったというから、怪力は本物であったろう。
 七兵衛サマには卓球台もあって、斉藤さんはよくお相手をさせられた。おかげで町民卓球大会で入賞したこともあったそうだが、その禮七が東京にいる間は、主人(先代七兵衛)の読み終えた東奥日報を郵送するのが斉藤さんの役目であった。
「いま考えてみると、今日、東奥日報の販売店を家業にしているのも、なにかの因縁というものでしょう。」斉藤さんは、つくづくとその昔のことを話してくれた。
 ここでまた卓球の話に戻ることにしよう。
松井禮七が黒石小学校女子部を訪ねた。1928(昭和3)年の夏である。当時の尋常小学校は男子部と女子部に分かれていた。ときの校長は体育にかけては自他共に認める福田竹太郎である。ともにスポーツ愛好者同士だから、話のうまが合う。
「この学校に卓球台が何台ありますかね。」
 まあ、そんな話から始まった。黒石の卓球のことから全国の卓球界のこと、アムステルダム・オリンピックのこと。世界をぐるぐる回りながらの体育談議は延々2時間に及んだ。一方的に話を聞かされて、さすがの福田校長もけむに巻かれたかっこうである。禮七が帰ったあと、福田校長は側にいた山本康一先生に聞いた。
「山本君、松井先生ずいぶんしゃべっていったが、一体何の話でしたっけ。」
「そうですなぁ、卓球台を寄付するとかいっていましたが、あまりに多くて、わがれへんな。」
  しかしそれから1ヶ月ばかりして、女子部の校庭にガラガラと荷馬車が入ってきた。荷台には卓球台がごっそり積み込まれていたのである。
「何百人もの子どもたちに2台か3台の卓球台ではだめです。少なくとも、各学年に1台ずつですなぁ。」「はははははぁ。」そんなあんばいであった。

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