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卓球会の恩人 松井 禮七(まつい れいしち)

 松井禮七は、相撲にもまた並々ならぬ興味を持っていた。1941(昭和16)年の「月刊東奥」7月号に、「津軽の大力士、岩木川萬之助いわきがわまんのすけ」と題する読み物を掲載している。筆名は松井七兵衛とある。その「はしがき」を断片的ながら紹介しておこう。
 「次代を担う国民の体位向上を要求すること今日ほど緊迫したときはない。昔から形こそ異なっているが、時代と国情に応じて絶えず国民の錬成を続け、今日の歴史を産み出したことをとくと考えてもらいたい。
 私は昭和4年、養父の死によって、国に帰ってきたが、亡父の持った政党関係は一切返上して、もっぱらスポーツに余力を傾ける決心で、天職以外には運動奉公を念じてきた。
昭和16年の7月といえば、太平洋戦争に突入する直前で、日本は戦時体制一色に塗りつぶされた時代である。その暗い時代に、スポーツの振興を声を大にして提唱したのである。
卓球に相撲に、いささか尽くしてきた関係上、卓球の歴史を整理し、次いで相撲の昔を調べ始めた。たまたま兄が発起人となり、私の生まれた六郷村赤坂(現黒石市)の八幡宮に、村が生み出した力士、一つ森岩吉氏の碑を建てることになった。記事を拾い集めている間に、岩吉の叔父にあたる岩木川萬之助の錦絵と戒名とが兄の目にふれ、つぎつぎと材料を集めて、この一篇をまとめることになったのである。」
 岩木川萬之助のことは、ここでは多くを書かない。1846(弘化3)年、南津軽郡山形村毛内(現在黒石市)に生まれ、1879(明治12)年6月20日、34歳で巡業途上、札幌の客舎で急死す、とだけ伝えておこう。この岩木川の追善碑は、温湯の遠光寺おんこうじにある。また一つ森岩吉は1866(慶応2)年4月5日生まれ、1934(昭和9)年8月4日死す。黒石市赤坂の八幡宮境内にその碑がある。
  この八幡宮の境内にはかつて土俵がつくられており、村の若者たちの力試しの場であった。赤坂の宇野家の庭にも土俵があったというから、禮七は子供のころから相撲が好きであったのだろう。「月刊東奥」のなかで「卓球の歴史を整理し」と書いているが、残念ながら、卓球そのものについての論文はさがし出すことはできなかった。
 青森市の歯科医院が敗戦直前、1945(昭和20)年7月28日の青森大空襲にあい、家財とともに多くの資料を焼失したからに違いない。あす疎開する手はずを整えて荷造りをまとめていた矢先の大空襲であった。

その戦争が終わるずっと前、斉藤一郎さん(故人)は松井七兵衛サマに奉公していた。通称、孫弥損徳まごやそんとくの名で親しまれる斉藤一郎さんは、かつては黒石市会議員であり、いまは東奥日報黒石販売店店主として悠々たる生活を送っていたが、小学校を卒業するとすぐ、丁稚奉公に出るという苦労人であった。
 その「斉藤一郎回想録」(昭和60年12月、烏城出版社発行)から、松井禮七のくだりをお借りしよう。

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