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卓球会の恩人 松井 禮七(まつい れいしち)

 その同じ年、青森市に散在していた各チームが集まって、青森ピンポン協会(現在の青森県卓球連盟)が誕生した。協会設立は本県として最初のものであった。もちろん松井禮七の助言によるものである。
 また県内の有力選手を東京歯科医専に引っぱって、トップクラスの選手に養成し、これらの人たちが青森県に帰って現役選手となり、あるいは指導者として、本県卓球の土台を作りあげたのである。だから松井は「青森県卓球の父」ともいわれたが、青森県ばかりでなく、広くわが国卓球界の発展のために、大きな力となったことは言うまでもない。
 
 ここで、棟方守貞先生の思い出話から振り返ってみよう。
 棟方先生が松井禮七と初めて会ったのは1928(昭和3)年のことである。そのころの卓球は、いわゆるピンポンに毛がはえたようなものであった。カチャカチャと打ち合っていたにすぎない。そんなとき、松井先生が黒石にやって来た。
「ただもう、唖然あぜんとするばかりでした。」
 なにせ、台から3メートルも離れて、フォアにバックに自由自在に打つのである。1920(大正9)年の夏、県立弘前中学校(現弘前高校)1年生のときからラケットを握ったという棟方先生だが、この松井卓球のスケールの大きさには、ただただ、たまげるばかりであった。
 当時、棟方先生は青森師範学校を卒業して上北郡の学校に勤務したあと、若き教師として、ふるさとの黒石市六郷小学校に赴任ふにんしてきたばかりであった。
 
すでに黒石では1925(大正14)年に黒石卓球クラブ(黒石卓球協会の前身)が結成されており、卓球のことなら、いささか知っているつもりでいたのだが、松井禮七の技(わざ)を目前にしては、驚くほかなかった。
 松井禮七はその後、東京歯科医専の教授をやめて、青森市新町(現在の松木屋デパート裏)に歯科医院を開業するのだが、黒石市青山に住む、三女の水木和子は、そのころの父、禮七のことを、思い出し思い出ししながら、かみしめるように語ってくれた。
 「たまにですけど、病院の父の居間をのぞくことがありました。すると天井からゴムひもでピンポン玉をるしているのです。家の中にいても卓球の練習をしないと気持ちが落ち着かないのでしょう。」
 「ときにはこんなこともありました。相撲の回しを締めて、相撲の型というのか、そんなことをやっていたことを見た覚えがあります。」
 和子さんがまだ女学校にあがるかどうか、そんな少女時代のことである。
 居間の壁には、風呂屋にあるような大きな鏡が置かれており、その鏡に、回しをしめた裸身を写しながら、気合いをこめて心身を鍛えていたのかもしれない。

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