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快男子 綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ)

 綾川のもう一つの顔として自彊術じきょうじゅつがある。自彊術というのは簡単にいうと、心身を鍛える健康体操といってもよいようだが、綾川自身、重い病気にかかったとき、この自彊術の治療で救われた体験がある。以来、信仰的ともいえるほどの熱心さで、自彊術の宣伝と実践活動を開始する。
 綾川の講演は全国的な規模で行われ、大きな反響を呼んだ。出羽海、鳳組の合併巡業で広島を訪れたとき、綾川は広島市西高等小学校に招かれて講演したが、のちに同校からたくさんの感想文が寄せられた。その一端をみる。
  そして綾川の来校記念として「高潔従容こうけつしょうよう力量卓越りきりょうたくえつ」「綾川力士角力道すもうどうの花」などと書かれた生徒たちの書が届いている。よほどの感銘を与えたに違いない。
 綾川夫人、晏代やすよさんとは自彊術がとりもつ縁で結ばれた。本名むめ。芸者のころの源氏名は「小雛こひな」。新橋芸者の三羽烏といわれたほどの名妓であった。
 そのころ綾川は両国橋のすぐそばにある自彊術本部の道場に通い、自ら実践者として多くの人たちの指導にあたっていた。百畳敷きもある広い道場で鍛錬するのだが、そのなかに晏代夫人がいた。
 のちに東京・築地に「金水館」という旅館を経営するが、紹介状がなければ泊れないという格式の高い旅館であった。政財界のお偉方や、高級軍人など、綾川の幅広い人間関係は、こんなところからさらに広がっていったようである。
 綾川ほど、さまざまな事業に手を染めた人は少ないだろう。しかも、そのスケールの大きさと先見性は驚くばかりである。満州に1万ヘクタールのりんご園をつくろうとか、酸ヶ湯の温泉を青森まで引いてこようとか、常に人の意表をつくものばかりであった。
1923(大正12)年には黒石市浦町(当時はマルニ商店の敷地、現在、柴田久次郎宅)に青森県はじめてのりんご加工工場を建てた。りんごを原料としたリンゴ・サイダーだとか、ブランデーやシャンパンの製造を目的としたものである。いまでもその煉瓦れんが造りの建物が残っている。これにはマルニ商店やキュウマル鳴海醸造店などが資金協力した。アメリカ帰りの技術者を招いたりして精魂をかたむけたが、うまいぐあいに製品ができないままに挫折ざせつした。
なにせ時代が早過ぎた。今でこそ、ワインだブランデーだと、大衆的な飲み物になっているが、当時はハイカラにすぎて庶民になじまなかった。
 また1928(昭和3)年には、レスリングの興行をやっている。自分の弟子である古参の幕下力士をにわかレスラーに仕立てたうえ、3人の外人を招いて、「日英米レッスリング競技会」(ツの字が入っているところがおもしろい)と銘打って国際試合をやったのだ。初めのうちは物珍しさも手伝って、かなりの人を集めたが、次第に客足が落ちて興行は失敗、大きな赤字を背負い込んだ。
 スポーツ平和党のアントニオ猪木が参議院議員に当選するなど、いまでならプロレス人気はなかなかのものだが、これまた60年も前のこと、やることが早過ぎた。
 ハイカラ好みで時代の最先端をゆく綾川だが、心はいつもふるさとに思いをはせていた。夏の暑い盛りになると、「わっぱ飯さ茄子漬」のうまさが忘れられない。漬けたばかりの、あの鮮やかな茄子の色あい。丸ごとガブリとかじったときの爽快そうかいな気分は、ふるさとならではのものである。
 長坂山で夏草を刈って汗を流したあとの、わっぱ飯と茄子漬のおいしさ。そのわっぱで冷たい沢の水を汲んで、ごくごくと飲みほす。のどから腹にしみわたって、わがふるさとはいつまでも平和なのだ。綾川亡きあと、母まきさんは、茄子がとれるころになると、きまって仏壇に茄子漬を供えたものである。

 1933(昭和8)年2月16日午後4時20分、持病の腎臓結石が悪化して、入院先の東京・聖路加病院で死去した。ときにまだ49歳の若さである。
要道院自彊綾川居士りょうせんこじ

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