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快男子 綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ)

 部屋に着いて、「おかみさん、車賃35銭を払って下さい。」「オヤ、お前、車に乗って来たのかえ、生意気に、なんだい序二段の褌かつぎじゃないか。」
 さんざん小言をいわれたのはいうまでもないが、そこは親方のおかみさん。極度のすきっ腹に大飯はいけないと、その日はおもゆ、翌朝はおかゆ、夕方になってようやく米の飯を食わせてもらったときの嬉しさは、ああ、泣き出したいほどであった。
 翌年の1907(明治40)年夏、今度は北海道に巡業した。五月場所は幕下で優勝し、前途は洋々としてひらけつつある。北海道の手前はふるさとの黒石。あるいは父が来てくれるかもしれない。その父には会えなかったけれども、兄専助が父にかわってやって来た。そして言う。「父は朝夕、そちの健康を祈っているぞ。」「よし、きっと立派な力士になってやる。」兄の手を握りしめながら誓った。
 その誓いどおり、十両二枚目に出世した1911(明治44)年、今度は弘前に巡業した。郷里とは長い間隔絶していたが、今度こそは帰れると、川部駅から出発しようとしたそのとき、綾川をじっと見つめていた青年がいた。のちに相撲の神様といわれた名大関、大ノ里萬助(藤崎町出身)その人である。大ノ里が角界入りしたきっかけは、若き綾川の雄姿にひかれたためだといわれる。人々を魅了するに十分な器量を秘めていたのだろう。若さあふれた人間が、目的に向かって登りつめてゆくときの凛々りりしさといってもよい。
  大ノ里の天内萬助は幼い時から無類の相撲好きで、早くから力士になる夢を抱いていた。横綱梅ヶ谷一行が弘前巡業にきたとき、親には内密に一行のあとを追ったが、兄に見つけられて、このときは連れ戻されている。綾川が郷土入りしたのはその翌年であろう。奥羽線川部駅には青森県知事代理、郡長以下の有力者が居並び、黒石小学校の児童が小旗を打ち振って、大銀杏に紋付き羽織袴はおりはかまの関取綾川をにぎやかに出迎えた。
 その晴れ姿に感動した萬助青年は、父弥助に無断で米1俵を汽車賃に単身上京したのである。萬助19歳のときであった。
 綾川五郎次は角界切ってのインテリ力士と言われた。大学を出たわけではないが、上野の図書館にチョンマゲ姿で3年間通ったと伝えられている。著書「一味清風」は相撲の歴史、四十八手の解説とその極意が書かれているが、その中に彼の波乱万丈の人生哲学が余すところなく語られている。ともかく一風変った新しがり屋でもあった。
 幕下だというのに、当時幕内力士にしか許されなかった二人引きの人力車を乗り回して悠然としていたというし、十両入りしたころには、明治大学相撲部の師範をつとめている。プロの力士でありながら、学生相撲の指導をかって出たのだ。だから本場所ともなれば、両国国技館の3階席には、明大応援団が陣取って、「フレーフレー、ア・ヤ・ガ・ワ」の大声援がおこり観客を驚かせたものである。
 その明大の講師として出掛けるときなどはフロックコート姿でさっそうと街をゆき、ハイカラ力士と騒がれた。チョンマゲ姿にフロックコートをつけ、蝶ネクタイをしめた写真が今も残っている。

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