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快男子 綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ)

  ことに1914(大正3)年の五月場所4日目、東前頭八枚目で、美男大関として知られた当時の最大のスター、鳳谷五郎おおとり やごろうを首投げで破って満場をうならせた。さらに大正5年一月場所6日目、今度は東小結の地位で新横綱となった鳳を再び首投げにほふり、関脇昇進を決めた。

 最高位は関脇だが、男っぷりがよく、しかも変幻自在へんげんじざいの技のさえは、多くのファンを引きつけた。ことに当時のいきすじのねえさんたちの間では引っぱりだこの人気スターとなり、毎日のように新聞を賑わした。しかし、三役に定着したころから持病の腎臓結石じんぞうけっせきが悪化し、新関脇の場所は初日取っただけで休業した。その後も休場がちとなり、1921(大正10)年1月、西前頭十四枚目を最後に引退、年寄千賀ノ浦を襲名することになる。

 ここで巡業中の奇行を紹介しておこう。
 1906(明治39)年の春といえば、日露戦争が終って国中が戦勝気分に湧き立っていたころである。相撲はどこへ行っても大入り満員であった。
  綾川はまだ序二段、髪はくわいの取っ手のように不体裁であるが、意気盛んな若者である。
(くわいというのは、沼に自生するおもだか科の多年生植物。くわい頭といえば昔、医者などが結った髪の型で、総髪をうしろに束ねた格好。くわいの芽に似ているので、そういわれた。)

 巡業は大阪から九州と回って佐賀を最後に解散した。いつもならみんな一緒の団体行動で東京に帰るのだが、この時は自由行動が許された。籠から放たれた小鳥のように喜んだのはよいけれど、わずかばかりの小遣い銭はすぐさま底をついてしまった。下関に着いたらもう一文なし。これから先、50時間の長旅をどうしよう。泥棒するわけにもいかないし、乞食になるわけにもいかない。大阪駅に着いたのはお昼ごろである。
 「おすしに弁当、ビールに正宗(酒の名前)。」
 駅弁の売り子の呼び声がすきっ腹に響く。耳をふさぎながらホームに降りて、水道の栓に口をつけ水をがぶ飲みした。水っ腹で一時を過ごしたが、まさに土左衛門にも似た哀れな心境である。でも、これしか方法がない。名古屋、浜松、静岡と水っ腹作戦を繰り返しながら、新橋駅に着いたときには、めまいがして足腰が定まらない。やむなく駅から人力車に乗って本所に向かう。

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