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快男子 綾川 五郎次(あやがわ ごろうじ)

 東京・本所にある高砂部屋の格子戸に手をかけたときの胸の高まり。
 「ごめん下さい。」
 ほどなくして50歳くらいのおかみさんが現われた。
「用事があるというのはお前かい。」
「はい、はづめてお目にかかりまし、相撲しもう取になりたくて、青森から参りますたもの、何卒なにとぞよろしく。」
 津軽弁まる出しで、後生大事に握ってきた国元からの紹介状を差し出したときは、ただ口をもぐもぐ動かすばかり。予習してきたはずの雄弁はもうどこかへ消えていた。
「ああ、よくわかりました。」
 おかみさんは大きくうなずいた。綾川の相撲取り人生初日の情景である。

 
  さて、ふんどしかつぎは力士の一年生、どこへ行っても頭が上らない。親にもらった名はあるけれど、そんな名前はどこへやら、ただもう野郎々々やろうやろうと呼び捨てられる。修業とあらばぜひなしと、その日からは、あっぱれ野郎となりすまし、おさんどん(飯炊き)から三助(風呂たき)まで一切万事やってのけた。綾川後年の述懐じゅっかいである。
 そして一月場所がきた。綾川の四股名をもらっての初土俵を踏む日である。あすは早いから今夜は早く寝ろといわれたが、とても眠れない。12時を過ぎた。時計が3時を打つ。こっそり起き出して稽古褌けいこふんどしを脇に抱え込む。忍び足で部屋を出た。南無八幡大菩薩なむはちまんだいぼさつ、今日の相撲を守りたまえと唱えながら回向院えこういんに向かう。回向院の奥庭に両国国技館が完成したのは、それから4年後の1909(明治42)年6月である。
 朝4時に土俵があく。呼び出しやっこが呼び上げるとすぐ土俵へはい上って2人を倒してはじめて1つの星となるのだ。仕切るでもなし待ったもない。飛びつき相撲である。初日は4人を倒して2つの星をあげ、その後も連戦連勝、4日後には本中ほんちゅうに昇進した。本中というのは前相撲のうち番付に入る直前の地位である。五日目から本中である。仕切りもできれば待ったもできる。まあ格好がついたわけだが、ここでもまた全勝して新序ノ口へと出世する。
 だがこの出世には猛烈な祝儀が待っていた。げんこつの雨である。気をよくして支度部屋に引きあげるのを待ち構えていた先輩たちは、おめでとう、おめでとうと言いながら鉄拳てっけんの一撃、続いて二撃。けがをすることはないけれど、すいぶん乱暴なご祝儀もあったものだ。いまの相撲社会では、もうそんなことはないようだが、明治のころはまさしく力と力のぶつかり合いであった。
こうして次の五月場所では番付にはじめて名前が載った。順調なスタートである。1910(明治43)年6月、十両入り。その後病気もあって一時幕下に陥落したが、1914(大正3)年1月、30歳と遅咲きながらも入幕を果たすことになる。身長175センチ、体重107キログラム。均整のとれた体である。先代若乃花(現相撲協会理事長)が現役時代、179センチ、105キログラムといわれたから似たような体型である。左四つからの吊り寄り、下手投げ、首投げなど豪快な相撲っぷりで土俵をかせた。

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