ホーム文化財・遺跡>竹内 清明(5/6)


津軽のライオン 竹内 清明(たけうち せいめい)

 
 1899(明治32)年夏、衆議院議長星亨ほしとおるが所属する憲政党が山県やまがた内閣の増税案に賛成したことの弁明をかね、遊説ゆうぜいのため青森・五所川原・弘前を経て黒石へやって来た。青森県では増税反対の憲政本党が各地で抗議運動を行い、黒石がその最大拠点だった。
 8月7日、星は田舎館村をへて黒石に入って来た。先頭には消防の小頭こがしらたちを立て、憲政党党員が前後を固め、星は特別あつらえの白いコーモリ傘をさして二人びきの人力車に乗り、10人ほどの書生がその車に手をかけて護衛していた。もちろん、県下各地より招集された警官たちは群衆を制止していた。しかし、一行が前町の「増税絶対反対」の大アーチをしり目に上ノ坂の演説会場へ向かおうとした時に、両側の町家の屋根から屋根石が雨あられと投げつけられた。一行もすでに青森の第一歩で仕込杖しこみづえを血でぬらしていたから、かねてこのことのあることを予期しており、壮士たちもピストルで応戦してきた。また星は特別製のコーモリで石をはね飛ばしたが、車夫が怪我をしたため酒屋へ身を隠した。警察署長も倒された。この時、竹内清明は屋根の上で片肌ぬいで党員を指揮していた。事件は弘前の師団から憲兵隊けんぺいたいが出動してしずまったが、警察の調べは竹内が呼ばれただけで処分はなかった。
 結局、星は300名の前で演説し、反対派は愛宕神社あたごじんじゃに3000名を集め、1ヵ月後の県会議員選挙には与党の憲政党が5名の当選者なのに、野党の憲政本党は24名当選させた。この時、星は青森県は敵にすれば大変だが、味方にすればまた大変力強いと報告した。この星が政友会設立に大いに活躍して暗殺され、竹内が1911(明治44)年、国民党(憲政本党の後身)を脱党して一県一党の大政友会を結成し、政友会の竹内清明か、竹内清明の政友会かといわれるようになるのも不思議なめぐりあわせであった。

(5/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る