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津軽のライオン 竹内 清明(たけうち せいめい)

 歴史上、有名になっている政治家は英雄的で、権力的である。また、平和な時代に有名な人物は、その賢明さ、人間性のすばらしさで名を残す。しかし原敬は強力にして偉大な政治家であったにもかかわらず、英雄的印象を人に与えなかった。原は過去を語らず、理想をのべず、重点主義で、眼前に横たわる問題をてきぱき片づけていった。そして彼は大きな事を小さく取り扱うことに妙を得ていた。非常な事件であればある程、彼の手にかかると「なぁに」という一笑でたちまち平凡化されて片づいた。竹内清明のやり方もこれに似ていた。一県の政友会も三大事業の着手も青森県にとっては回天の事業(天の運行を変えるほどの大変革)だったがてきぱき片づけた。大宰相原敬は死ぬまで借家ずまいだったが、竹内も死んだ時、10万円の借財を残した。
 竹内は父の教えを守って実業生活を大事にした。明治8年、彼が18歳の年に父に死なれたが、1877(明治10)年西南戦争に際して募集された巡査に応募し、終戦後は警視庁に勤務した。12年4月帰郷して東津軽郡役所に書記として勤務した。時、あたかも自由民権運動で国内は沸とうしていた。彼もこの運動に身を投じた。黒石に豪農加藤宇兵衛(1861〜1928)とともに結社、益友会(えきゆうかい)を作って運動の拠点とした。1880(明治13)年1月末、本多庸一(ほんだよういち)、菊池九郎らが、国会開設の「40万同胞(どうほう)に告ぐ」の宣言文を飛ばして同意者を県内につのった時、竹内は南津軽郡を3ヶ月にわたって遊説して歩いた。この時も郡役所の仕事は続け、家族は黒石において単身赴任たんしんふにんしていた。そして土曜日に帰りその晩と日曜日と活動し、家庭を破壊したり自分が破滅したりする壮士的そうしてき政治活動はしなかった。

 ただし必要な時は思い切って財を使った。弘前藩の重臣だった杉山龍江すぎやまたつえには心服していたので、杉山のためには身命も惜しまなかった。ある時、杉山の言うがままに田地もろくのかわりにもらった証書も全部差し出した。そのため生活費に事欠くことになった。しかし他家へ行った時は食事はすんだといって絶対ごちそうにならなかった。
 1886(明治19)年、郡書記を辞職し、現在のりんご試験場の所に12ヘクタールのりんご園(興農園)を経営して、りんご産業の発展に尽くした。1898(明治31)年、下北半島の宿野辺しゅくのべに農場を開き、福民部落を創設し半島山間部に稲作を伝えた。竹内は1887(明治20)年から山形村の戸長こちょうや村長となって村勢の発展に尽くしたが何より村の基本財産の造成につとめ、その中心にりんご栽培をすすめ、国からの土地払い下げを積極的に行い、園地は村全体で400ヘクタールに及んだ。そしてさらに販売方法を改良して山形村信用販売購買利用組合を結成して地元民の利益を守った。
 竹内はこのほか日露戦争後、日本領となった樺太からふとに漁場を開いて10万円を手に入れたり、新聞発行や広告印刷を行い、現実にしっかりと足を踏まえた生き方をした。
 しかし政治に深くかかわっている以上、出費は激しかった。このことを老母かつはいつも心配していた。1905(明治38)年の暮、78歳の老母は牡丹平で重い病いにした。この時ちょうど樺太漁場の運営資金が手に入ったので、竹内は娘に2万円もたせ、牡丹平に向かわせた。この金を見た老母は「千代太郎も金が身についたか。」と大喜びで枕の下にその金を入れ、安心して3日目に目を閉じた。

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