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津軽のライオン 竹内 清明(たけうち せいめい)

大正の代議士で岩木川改修に生涯を捧げた安部武智雄は竹内をしのんで次のように書いている。
 「わが県わが党の衆議院議員は工藤行幹くどうゆきもと・菊池九郎・榊喜洋芽を始め、那須川光宝なすかわみつとみ・関春茂・源晟みなもとあきら徳差藤兵衛とくさとうべえらほとんど翁の意中より出でざるなく」と明治の議会政治出発点における竹内清明の指導力を高く評価し、さらに明治末から大正・昭和にかけて活躍した多くの政治家が竹内の手によって生まれたことをのべる。黒石地方では加藤宇兵衛・北山一郎・鳴海文四郎・兼田秀雄の名があがる。人々は竹内を「孔明こうめい」といった。孔明はいうまでもなく、中国の「三国志」で活躍する知恵の深い、中国史上最高の作戦家である。

 このように竹内清明は黒石が生んだ偉大な政治家であるが生まれは弘前藩士の子だった。1858(安政5)年、竹内多作の長男として弘前田茂木町(たもぎまち)に生まれ、幼名を千与(代)太郎、のち清明に改めた。清明は初め藩校の稽古館(けいこかん)に学んだが、1871(明治4)年、廃藩置県となって稽古館が廃止され、一家も浅瀬石に移住した。この時、多作は農地を分譲してもらったが、その土地は小作に出し、明治5年1月黒石市中町に移り商業を営んだ。しかし少年清明はもと藩校であった東奥義塾に入学して勉強したかった。そこである夜明け、そりに自分の荷物を積み、弘前めざしてひそかに家出したが、折悪しくその朝は小雪が降っていたので足跡がつき、取りおさえられてしまった。
 父多作はそれまでいばっていた武士が禄を離れるとまるで生活力を失って家族が悲惨な生活におちいっている様を見、学問より職業が大事だといい、清明を大工の弟子にした。
しかし清明は血の気が多く、年上の若者たちを集めてそのがき大将となり、よろいびつの中の金を持ち出してネプタを作ったりして遊びまわり、結局大工の弟子は半年でやめた。
 次に中町の大商人高橋家に丁稚奉公でっちぼうこうに出された。ここでも意地きたない客とけんかをしたりするので父から勘当かんどう(親子の縁を切ること)されるはめとなった。この時は平謝りに謝って許してもらった。後年、清明はこの父を憶い出しては感謝し、涙を流した。
 竹内清明の生き方の特色は政治家として天下国家を論じていても、常に現実的であることで、父の教えを守って最後まで実業ということを大事にした。
 将棋や碁の名人たちの打つ手にも疑問手が生ずるように、選挙の神様といわれた竹内にもやはり疑問手が生じた。大正14年5月、新制度のもとでの貴族院議員選挙が行われた時のことである。初め弘前出身で立志伝中の人物の、当時東京商工会議所会頭だった藤田謙一をおすつもりだったが結局、西郡の大地主をかついだ。この選挙には多額の金が飛びかい、人間性も金にまみれてしまった。藤田は破れたがすぐ勅選議員となって政界に出、のち、疑獄(ぎごく)事件にまきこまれた。当選した大地主は破産した。竹内はこのあと政界を引退した。そして1929(昭和4)年12月24日未明、72歳を一期いちごとして世を去った。墓は黒石市保福寺にある。

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