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津軽のライオン 竹内 清明(たけうち せいめい)

 現在八戸市は日本でも有名な工業都市であり、また八戸港は漁港、工業港、商港として栄えている。昭和40年代に魚の水揚げ高や売上げ高において日本一、二位を記録した。しかし、そもそもの出発点はさめ漁港の修築からだった。蕪島かぶしま新井田川にいだがわもつ鮫漁港は江戸時代から難所の多い東回り航路の良港として知られ、八戸藩も整備に手を加えていたが三陸の激浪を防ぐことが出来なかった。
 明治になって北海道航路や北洋漁業の重要基地として国家的に認識され、三八地方の指導者はこぞって県や国に対して港の整備を運動してきた。八戸の商人浦山太吉などはそのため家産を尽くし、また明治・大正の八戸地方の政界の指導者北村益きたむらます神田重雄かんだしげおらは政治生命をかけた。これも竹内清明をとおして原敬を動かし、1919(大正8)年、国から60万円の補助金を得て着工、1933(昭和8)年241万の巨費を投じて近代的八戸港に生まれかわり、現在の発展のもととなった。
 竹内が原敬にいかに信頼され、重んぜられたかを物語る次のエピソードがある。
  この頃、青森県の事業で政府に関係するものは必ずまず原総裁の了解をとり、その指揮によってとり運んでいた。したがって県の役人であれ、代議士であれ、何十回となく原敬の所へうかがうのだが、総裁はまず「竹内はどうしている。変りはないか。」と尋ねる。
「達者でおります。」というと安心して「用事は。」と尋ねる。この時も「この問題は竹内が知っているのか。竹内は何と言っている。」と必ず聞く。竹内清明の健康について「風邪です。」などと答えると「ソレァ困る。大分悪いか。見舞いをやらねばならぬから、今日、宿へ帰ったら電報で容態(ようだい)を聞き、すぐ電話で知らせよ。」という。
この二人の厚い友情にはさすがの海千山千うみせんやませんの政治家たちも心うたれた。原と竹内は晩飯を一緒に食べる時など腹の底から笑いあい、原の妻も女中もともに笑いのお相伴しょうばんをする。青森県の政治家で一国の大総理・大総裁とこのように交際でき、信頼された政治家は竹内清明をおいて、その前もその後もついに出なかった。
 竹内が原に信頼された最大原因は、1911(明治44)年8月に行われた立憲国民党青森県支部の解散、そして青森県の政党を一県あげて政友会にするという前代未聞ぜんだいみもんの大変革をなしとげたからである。
 当時、日本の政党は政府与党の政友会と野党の立憲国民党(前身は憲政本党)の二大政党であった。そして青森県の政党人は野党系がほとんどだった。したがって青森県の政治は合同以後、1924(大正13)年の政友会分裂まで政友会の独走となった。明治初年から行政困難県といわれた青森県の県政が極めてスムーズになった。
 竹内は50年間政治の世界に生きたが、中央に出たのは1908(明治41)年の総選挙に憲政本党の代議士として一期務めた時だけで、あとは黒石町会議員、南津軽郡会議員、さらに山形村(今は黒石市に所属)村長で、もっぱら時々に所属した政党の県支部・郡支所の幹部として裏方に徹した。彼は「兵に将たらず、将に将たり」といわれる。それは一般政治でも選挙でも党のリーダーや幹部クラスの動かし方がうまくて百戦百勝したことや仲間や後輩を政治家に育てあげるのがうまかったからである。明治・大正の本県出身政治家で竹内の世話にならなかったものはなかった。
 

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