ホーム文化財・遺跡>西谷 彦太郎とその仲間たち(6/6)


りんご界の進歩派 西谷 彦太郎(にしや ひこたろう)とその仲間たち


もともと津軽のりんごは主幹形であったのが、あんまり大きくなって行き詰まったので、果断な実行力をもっていた弘前の外崎嘉七が、主幹を下枝だけ残して切り落したことから開心形が始まったのである。
 ところが、西谷彦太郎、順一郎父子は主幹形の行き詰まりを見こしていて、曲心半円形という独特の形をつくりあげていた。説明がめんどうなので略すが、主幹形と開心形の中間の形と思ってもらえばよい。大正の初めのことで、その後の樹形はこの曲心半円形を原点にして人により地方により種々に改造されて今日に至っているのである。
 順一郎は南郡立農学校を出て、私立名和昆虫研究所で1年間勉強、県農試や南郡農会に勤めたこともある技術者であった。 気性が激しく勤めはいずれも長く続かなかったが、研究熱心で負けず嫌いで、1918(大正7)年に書いた「実地経営苹果へいか栽培講義」は一般栽培者が読んでわかる実用書としては最初のものだといわれている。彼が28歳のときの著述である。彼はこれを北海道大学出身の島善鄰しまよしちか県農試技師への対抗心をバネにして書いたのであった。
 
 穏やかな性格の彦太郎は、この長男の激しい性格と自己顕示欲を祖父平兵衛に通じるものとして憂えた。そして、その反動のように温和な二男耕次郎を溺愛できあいした。耕次郎、のちの郷土史家雨山である。順一郎はこの父への愛と憎しみの相克そうこくに苦しんだ。父をもライバルにして技術開発に挑戦し、父に負けたといっては嘆き、勝ったといっては喜んだ。しかし新品種の育生にとりつかれるようになってからは、次第に資産も周辺への指導力も失い、1961(昭和36)年71歳で淋しくこの世を去った。父彦太郎が82歳で死んだのが1948(昭和23)年であったから、父の圧迫から解放されたのは僅か13年間にすぎなかった。30代で器量を出しつくしてしまった人、という評もできるが、宿命的な父と子の対立を思うとき、その非運に耐えた強靭な意志に感銘せざるをえない。
 
 さて、別稿渋川父子を含めて4組の父子の進歩性とバイタリティはどこからきたものか。1つの仮説を提示しておきたい。それは黒石が1894(明治27)年弘前・青森間の鉄道が開通するまでは交通の要所で、秋田、山形、青森、函館の往来には全て黒石を通ったということである。人びとが往来するところに情報が集まり、文化が栄える。さらに弘前への対抗意識がある。弘前藩10万石対黒石藩1万石でも勝つにはどうすればよいか。それは古い殻に閉じこもっていては格が違うのだから負けるに決っている。新しい世界にはそんな格は通用しない。創造力、開発の意欲、そして大胆な実行力がものをいうのである。黒石の精神風土はそのようにしてつくられたのではないだろうか。少なくとも弘前には親子二代の指導者というのはない。
 (執筆者 斎藤康司)

 

(6/6)
文化財・遺跡へ戻る

前ページへ戻る ホームページへ戻る