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りんご界の進歩派 西谷 彦太郎(にしや ひこたろう)とその仲間たち

風呂敷に包んだりんごを投げてよこしたとも伝わっている。次に三久中島商店へ行ったら、ヤマ丁鈴木商店の主人も来ていて、「一車くらいまとめてよこすことができるか」といった。新助は二つ返事で、喜び勇んで帰った。
 一車というのは、当時の貨車のことで4トンか5トン積むことができた。そこで新助はりんご専用の箱を考えることにした。それまでは石油箱だとか樽だとか、ときにはかますを使ったりしていたが、神田市場に送るとなればそうはいかない。しかし、専用の箱を作るにしても余り高くついては困る。製材所の基本の長さになっている1丈板(3メートル余)を無駄のないように切って組み立てる、しかも中身が40きん(18s)入ってなお傷がつかないように干草などを十分詰められる大きさでなければならない。こうして幾つも作って到達したのが長さ1尺9寸(57p)・深さ1尺(30.3p)・幅9寸(27p)という木箱であった。

 
 以上の寸法は後年の資料からの推定であるが、注目すべきことは40斤箱にするという着想である。当時欧米からの輸入りんごは1箱40ポンドであった。ポンドのことを英斤えいきんといって、日本の1斤が100もんめなのに英斤は120匁であった。40ポンドでは4800匁すなわち4かん800匁である。1匁は3.75グラムだから18キロになる。
 近江商人の流れをくみ、才覚すぐれて見聞の広い新助なればこその、画期的発明であった。
 販売上の功績の大きかった新助・喜蔵父子であったが、だんだん生産の方に比重を移していったらしい。一時は浪岡の方に相当大きいりんご園をもったが、人をたくさん雇って行う大経営が等しく行き詰った時期―大正時代の病虫害大発生で収支つぐなわずに不成功に終った。新助は1910(明治43)年86歳の長寿を全うし、喜蔵は1925年(大正14)年70歳で死んだ。青森県りんごの産地形成期を太く貫いた一生であった。

新しい樹形をつくる
 りんごの樹形は大きく分ければ2つになる。1つは主幹形といって、杉の木のように幹が1本スーッと立っていて、それに何本かの太い枝がついている形である。もう1つは幹が地上1メートルくらいのところで切られていて、2、3本の太い幹が横にひろがっている開心形である。

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