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りんご界の進歩派 西谷 彦太郎(にしや ひこたろう)とその仲間たち

 さて、2つの契約とも実行されて、翌1904(明治37)年から開墾・栽植が行われたのであるが、ここで秣場まぐさばについて少し書いておこう。藩政時代、標準的な百姓は1ヘクタールの水田に1頭の馬をもつものとされていた。その馬に食わせる飼葉かいばは相当なもので、どこの村にも飼葉を刈る秣場というものがあったのである。明治になって昔からの慣例が認められて村の共有地となったので、村の意思で処分ができるようになった。りんごブームが起って平地の地価が暴騰ぼうとうしたことから、元蔵や彦太郎が目をつけることになったのである。元蔵が借りた10アール年80銭というのはりんご半箱分にしか当らない安さである。
 若くて気鋭の元蔵は考えた。金持ちたちはりんごに手を出したくてうずうずしている。しかし秣場を借りてりんご園をつくるには、いろいろと厄介なことがある。それを全部代行して、りんごの木も3、4年木に育ったところで売り渡したら、飛びついてくる金持ちがいるのではないだろうか。こうして田代にまでりんご園をつくったのである。
 元蔵がつくって売ったりんご園の総面積は5、60ヘクタールを下らないと推測される。世間には「野呂親子は手をひろげすぎて失敗した」という風聞が残っているが、果たしてそうか。元蔵が亡くなったのは1918(大正7)年まだ44歳の若さであった。父に先立つ逆縁ぎゃくえんで、その悲しみのためか勝之助も翌年65歳で死んでいる。
 風雲児らしい、あっけない終末であった。
 
 りんご箱の創案者
 世の中が今のように豊かでなかった時代、木のりんご箱は重宝なものであった。貧しい学生には本箱にも机にもなった。親に背いて夫婦になったような若者たちは食卓や食器棚にりんご箱を使った。そのりんご箱の創案者が奥村新助である。

 話は1896(明治29)年の初冬にさかのぼる。新助はりんごの見本をたずさえて上京した。神田多町の青果問屋に売りこむためである。青果問屋といっても主としてみかんの卸売りで、りんごを扱っているところは少なかった。果たして最初訪ねた江沢商店では、こういうものは東京では売れませんといわれた。

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