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りんご界の進歩派 西谷 彦太郎(にしや ひこたろう)とその仲間たち

 1902(明治35)年のこと、津軽のりんご園一帯でシンクイの被害が大発生した。リンゴシンクイガが果実の皮に卵を生みつけ、かえった幼虫が芯に向かって果肉を食っていくので、大きい穴があいて、割ってみると穴に虫の糞がつまっていて売物にならなかった。生産者は仕方なくそれを山積みして、さてどうしたものかと思案投首しあんなげくびであった。幸い気温のかげんで翌年は余り発生せずホッとしたが、1904(明治37)年に再び大発生し、続いて5年にも大発生して、生産者が動揺した。あきらめの早い人は「ああ、これで津軽の特産りんごも終りだ。」と嘆いた。
 しかし、同様の虫害は桃や梨にもあり、それを防ぐために袋をかけるということは、果樹栽培の先進地では昔から行われていたものである。津軽のりんご生産者もそれを真似まねるしかなかったのであるが、それには洞察力と決断力が必要であった。ひと度発生したものは多少の変動はあっても必ずやりんごにとりついて離れないだろうという読みと、たとえどんなに困難であろうとやらなければならないのだという堅い信念である。黒石地方では彦太郎・喜蔵・元蔵の3人がその洞察と決断をもっていた。
 彦太郎はこの地方随一の勉強家として、早くから袋かけ法のことを知っており、桃に袋をかける実験もしていた。喜蔵はりんご商として岩手県にも手をひろげて、盛岡地方で袋かけをしているのを見ていた。人びとが恐れたのは、少数の局地的なそれでなく、津軽のりんご全てに袋をかけるという、気の遠くなるような作業の量にあった。しかし、誰かが「何万町歩という水田が、1ヶ月足らずの間に全て苗が植えられるではないか。」と叱咤しったしたと伝えられているように、必要なのは果敢に実行する人である。3人は弘前地方の指導者外崎嘉七とのさきかしち呼応こおうして、大いに人びとを励まして袋かけを実行させた。
 
その効果は抜群で、ほとんど完全にシンクイの被害をくいとめ、1906(明治39)年には全県に普及したのであった。

りんご園をつくって売る仕事

 “5万分の1地図”というのがある。陸地測量部で出しているもので、見やすく正確でなにに使うにしても便利である。あの地図が色刷りになる前の黒一色時代、つまり1950年代の「黒石」の地図では、田代に果樹園があることになっていた。果樹園すなわちりんご園で、これは野呂元蔵が植えたものといい伝えられていた。今はもちろんない。
 田代のような積雪地にどうして・・・というのは今の考えである。1904(明治37)年山の秣場まぐさばにりんご園をつくるようになってから、資本のある豪農、豪商たちが争ってりんご栽培をはじめた。10アール1年1円という安い借料(小作料といった)で30年間借りる契約をして、りんごを植えるのである。その先鞭せんべん(1番初め)をつけたのがほかならぬ元蔵であり彦太郎であった。
 事は袋村(当時は山形村)で始まった。1903(明治36)年、袋村で2つの契約が成立した。1つは借主野呂元蔵、貸主袋村で3ヘクタールの秣場をりんご栽培を目的に30年間借りるというものであった。この契約には面白い条件がついていて、野呂は村の人が植えているりんごの栽培指導をし、指導をうけた人はそのりんごを野呂に売るというものである。
 もう1つの契約は“組合契約”というもので、袋村の農民3人が袋村から30年契約で借りた秣場3.5ヘクタールの権利を出し、松井七兵衛(前町豪商)が資金を、彦太郎が技術を出して、りんご園を共同経営するというのである。土地と資本と技術をそれぞれが出しあうという方式も、当時としては驚くべき合理主義であった。 

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