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りんご界の進歩派 西谷 彦太郎(にしや ひこたろう)とその仲間たち

 この日、最終的に決ったことは、彦太郎が書いた「稟告りんこく」(まわし文)と「謹告きんこく」(お知らせ)を印刷して、神田市場(東京市神田多町)の青果問屋に送るほか、この秋から出荷するりんごの箱に全て入れてやるということであった。
 さて、そのどこが進歩的であったのかというと、次の4つの合理化があげられる。

1.品質の等級を天(上級)、地(中級)、人(下級)の3等級に単純化したこと(一般には5〜6等級に細分化していた)

2.果実の大きさを大・中・小の3区分に単純化したこと(一般には1箱に入る玉数を表示して80玉から200玉まで細分化していた)

3.優良品種を7品種にしぼったこと(当時は20品種以上が売られていた)

4.品種に電信符号をつけて緊急な注文の便をはかったこと(電話は普及していないので急ぐ場合は電報であった。なお、“旭(あさひ)”をツ、“国光(こっこう)”をシとし、7品種でツカルクロイシとなるようにした)
 

 つまり注文者は「ツテタイ50オクレ」と電報をよこせば、旭の上品ものの大玉50箱を品質・荷造りに絶対責任をもって送り届ける、というのである。
 この時代のこの発想は、突然変異としかいいようのない新しさである。当時は、青果問屋に送られてくるりんごは1箱1箱開けられて、中身の目方が確かめられた時代である。
そうしないと上段にいいものを詰め、底にはクズ実が入っていたとか、4貫800匁(18キロ)あるべきものが300匁足りなかったとかの苦情が毎日のように発生したのである。
 結局、彦太郎たちの進歩的試みは、3、4年にして失敗に終った。時代に対し90年早かったのである。いや、今もまだこの方式が一般化するまで、青果物流通の合理化は進んでいない。けれども自分のりんご園に、東果園、盛業園、豊果園と誇らしげに命名し、その結社を共産社と称した3人の志と進取の気性は、りんごの歴史に特筆大書されねばならない。



袋かけ法の採用
 共産社の失敗後も、この3人の友情と協力には変化がなく、黒石地方の発展に大きな功績があった。その1つがりんごの害虫防除のため袋かけ法を他に先がけて採用したことである。今ではごく当り前のことで、近年は袋をかけないりんごこそ本物のりんごだという見方もあるが、初めて袋かけをした人たちには、それぞれに迷いがあり決断が必要だったのである。
 

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