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北嶺回峰(ほくれいかいほう)の苦行僧 正井 観順(まさいかんじゅん)

 観順が妻子を捨てたことは大変な話題となり、親戚では捨ておけないと多勢で連れ戻しにやって来た。このことで、観順の妻ヤスも責められたが、13歳の長女をはじめとして一家4人女子供だけ残して出家した観順も無責任きわまると非難された。
 ことによっては、警察の手を借りても連れ帰ると叔父は息まいた。上十川の宇野家のしゅうとからは「ムスメヲツレテムカイニユク」という電報が来た。観順は進退きわまった感がしたが、鉄石の心で立ちむかった。親戚一同もあきらめた。この結果、観順の千日回峰行は故郷では余り評価されなかった。
 1911(明治44)年の春、妻ヤスと娘が、おいの亮吉とともに一目いたいと比叡山に登って来た。しかし折から観順は、二千日回峰の大行を終えてさらに三千日回峰行へ出立すべく無音ぶいん無音の行中であった。そのため17年ぶりにはるばるやって来た妻子に逢わなかった。ただ亮吉は、待機していた室の襖の陰から人の泣く声がしばらく聞こえていたが、おそらく行者さんではなかったかと涙ながらに話した。世間では、親子の縁を切った、明治の苅萱と石童丸だといった。
 1913(大正2)年9月18日、今日も早暁から観順行者はいつもの如く回峰行に出立した。2555日目である。普通、比叡三塔十六谷を一巡するのに14時間かかる。したがって、行者はいつもは午後5時過ぎに無動寺谷の元明王堂に帰ってくる。しかしこの日は、午後9時になっても帰ってこなかった。 留守のものたちは変事を察して近くの堂の住職に連絡をした。住職は山中の道を尋ね歩いた。行者道は険しい。時にはけもの道でもある。住職は木立の間を折からの月光を頼りに、無動寺坂を下りて行ったが、ある所で、はたとつまずいた。おや、木の根でも岩角でもないのにと目をこらすと、それは行者の倒れた体だった。行者は頭を北向きに、顔は西方をむいていた。そして、持ちものもきちんとたたんで道ばたに置いていた。そこは晴れた日には、琵琶湖とあの3基の塔がよく見える場所であった。観順54歳だった。

 

 (執筆者 稲葉克夫)

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