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北嶺回峰(ほくれいかいほう)の苦行僧 正井 観順(まさいかんじゅん)

 しかし、観順の急激な激しい行為に対して、長く比叡山にこもる他の僧侶から批判が出た。修行未熟で千年の伝統ある回峰行に挑むは不届きであるとされ、ついに山を下りなければならなくなった。そのため翌年麓の寺で戒律の修行を行い、さらに滋賀県甲賀の最勝寺に引きこもって、回峰行にかかわるすべての難行苦行を実践した。生死の境をさまようことが何度もあった。このため仏門の中では低い地位だが正式の沙弥しゃみの位となった。しかし信心深い地方の人々は、観順を生きているお不動様として拝んだ。この最勝寺での修行が認められ、師の山岡大僧正の特別のはからいもあり、無動寺各寺院の協力も得て、1900(明治33)年6月、二百日回峰行に入った。京都には観順を拝む講が結成された。信者は800名をこえた。
 正井観順の回峰第九百日大回りは、1905(明治38)年4月から8月にかけて行われ、ひき続いて第千日行が8月10日より11月7日まで行われ、回峰行は満行(まんぎょう)(完結)となった。
 この千日回峰行をなしとげたのは、織田信長に比叡山が焼打ちされた天正以来では35人目にあたる。比叡山の記録には「三十五代東塔無動寺谷十妙院徒弟賜大僧都観順とうとうむどうじだにじゅうみょういんとていしだいそうずかんじゅん(津軽産正井氏)」とある。大僧都とは僧正に次ぐ僧侶の世界での高位である。
 このような厳しい修行を積んだので、観順には多くの霊力が兼ねそなわり、そのお陰をうけようと帰依きえする信者が1000人近くにも及び、信心講も拡大された。また多くの喜捨きしゃ(寄付)もなされた。しかし観順は千日の回峰行を完遂したあと信者にはかって講を解散させた。
観順には山を下りて寺の住職などに納まる気持がなかった。全身全霊をひたすらに回峰行にささげ尽くす気持だった。目標は回峰行を創(はじ)めた相応和尚が成し遂げて以来、何人も行いえなかった三千日回峰行の満願だった。
 しかも観順には、別修行として護摩供養一千座、写経百巻などもある。写経はただ文字を写すのではなく、一字ごとに仏の名を唱え、合掌礼拝する。そして一巻を書き終えれば、特別に法要をする。それを百巻も行ったのである。観順はこの終巻を納めるため、琵琶湖岸の坂本の船着場に3基の大法輪石塔を建てた。その第1塔は父のため、第2塔は母のため、第3塔は師のためといわれるが、塔には「一切我等與衆生皆共成仏道いっさいわれらとしゅじょうみなともにじょうぶつどう」とあって、この世の人全部の救いのためである。
 千日回峰行を終えたあと、観順は翌1906(明治39)年3月までの150日間、諸仏を30万回礼拝したが、毎日の読経どきょう、拝礼、加持祈祷かじきとうなどはすさまじい行だった。そして、1906(明治39)年4月2日よりいよいよ二千日回峰行に入り、1910(明治43)年11月23日満行となった。
 正井観順のことを、今苅萱いまかるやという。苅萱道心の話は、一般には石童丸の物語で知られる。道心とは仏の道に入った人のことで、九州の領主加藤繁氏は世の無常に感じて、高野山に登って出家、苅萱と名のる。のち妻と子の石童丸が訪ねてくるが、女人禁制のため石童丸だけ山へ登るが、会った苅萱は父と名乗らない。母と妹が死に、石童丸は苅萱の許で出家し、父と知らず一生をおくる悲しい物語である。

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