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北嶺回峰(ほくれいかいほう)の苦行僧 正井 観順(まさいかんじゅん)

 1894(明治27)年4月、猿賀の神宮寺と仙台の仙岳寺の紹介状をたずさえて、覚蔵は黒石を出た。首には、父母と一昨年亡くなった姉のお骨を下げていた。菩提寺の大本山東本願寺に納めるためだった。この行事を終えて、いよいよ比叡山に入った。比叡山では、のちに大僧正として天台宗全体を指導した山岡観澄師の弟子となり、観順と改名、無動寺谷明王堂で修行に入った。時に観順35歳だった。
 かねての念願を果たした観順は、必死に経を習い、修行を積んだが、遅い年齢で出家したので悟りに達するには通常の道を歩むのでは時間が足りないと思い、一般の僧たちが余り行わない大苦行を突破して悟りの道を得ようと決心した。それが回峰行である。
 回峰行は平安時代から始まった比叡山の修行方法で、無動寺を起点として、7年間にわたって比叡山の山上山下の路を巡り歩き続け、道筋の神社、寺院はもちろん、一つ一つの木や石にも魂があるとして拝礼する。歩いている時にも口の中で経を唱え続ける。1日30キロを800日、60キロが100日、84キロが100日で、その間に無動寺明王堂で9日間にわたる断食、水断、不眠、不臥ふがの修行を2回行う。1000日の修行を終えると、直ちにわらじばきのまま御所に参内さんだいして天皇のご健康を祈る。また一般の信者は、回峰行を行った行者を生き仏として拝み、行者も護符やお守りを与え、病気快癒などの祈祷きとうをする。千日回峰行の全行程は4万キロで、地球一周と同じである。行を開始したなら一日といえども休んではいけない。病気といえども休む理由とはならない。
 不可能のときは死を決するか、ふたたびゼロからの出発となる。毎朝、湯灌ゆかん(死者の髪、からだを洗って身を清めること)をし、頭をそり白麻の死装束に身を固め、三途の川の渡し賃の6文銭をつけて出立する。回峰は年に100日ないし200日歩くが、始めの3年間は笠もかぶらず、わらじは素足につける。笠は檜で編んだ縦長で左右の縁をまきあげたもの、そして自害用の短刀をもって、畳の上からわらじをはいて死出の旅路に出て行く。始めのコースは、まず無動寺谷を出て根本中堂―西塔の釈迦堂―横川よかわと山上をまわり山を下って坂本日吉ひえ神社―坂本―不動坂の嶮―東塔無動寺谷とまわって帰る。初めは7里半(30キロ)を歩くが、これには未完成の意味があり、千はまた永遠の意味である。
 1585(天正13)年の復活以来、千日回峰行者として39人目の葉上照澄はがみしょうちょうは、回峰行の苦しみを「どれも一歩一歩が針の山を登るようで、まったくおかげなくしてはやり遂げられるものではありません。自力とか、他力とか、あれは理屈ですね。」と語っている。
  1896(明治29)年11月、回峰千日行を決意した観順は、まず7日間の断食行を始めた。回峰行を行うためには厳しい行を幾つも越えなければならなかった。それらを皆突破した観順は、1897(明治30)年6月より10月初旬にかけて、見事に第一百日行を成しとげた。
 観順の手足には、雲の形をした火傷のあとがすさまじく残っている。これは肉体の上で護摩ごま(祈りの木札)をたいたり、掌の中で灯をつけて回峰行に一歩踏みだす行為から生じたものである。

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