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北嶺回峰(ほくれいかいほう)の苦行僧 正井 観順(まさいかんじゅん)

 ところが、とうとう出家したいという長年の願いを覚蔵に実行させるショッキングな出来事が起きた。それは1891(明治24)年7月、津軽海峡白神岬沖で遭難した瓊江(たまえ)丸の三回忌法要で亡霊たちと出会ったことである。瓊江丸には千島・樺太・北海道の漁場帰りのやん衆(にしんとりに津軽地方などから出かける漁夫)300余人が乗っていた。その夜、海峡は濃霧にとざされていた。そのため不幸にも満員の瓊江丸たまえまる(79トン)は三吉丸(93トン、新潟の船)と暗闇で衝突した。船腹を破られた瓊江丸はあっという間に沈み、三吉丸に救助されたのはわずか70名で、250名は溺死できしした。悲報は津軽中を悲しみのどん底におとしいれた。尾上村でも14人死んだ。
 翌々年の1893(明治26)年8月、尾上村の天台宗浄土寺で覚蔵は自ら主催して、慈眼大師(じげんだいし)(徳川家康、秀忠、家光の3代将軍に信任された上野寛永寺の開山天海大僧正250回遠忌おんき(50年、100年など遠い仏の法要)を行ったが、あわせて瓊江丸死者の供養も行った。そしてその晩に、法要を終えて黒石へ帰る途中の追子野木の野合で、覚蔵は奇怪な出来事にあった。何十という亡霊の火魂が眼の前に現われては消え、現われては消えるのである。それは、供養をしてもらった嬉しさとも、まだまだ浮かばれない無念さともみえた。覚蔵は大きなショックをうけた。そのため霊魂が鎮まるまで2回、3回と法要を重ねて一週間に及んだ。この事件であらためて仏教の教えの有難さを心から味わった覚蔵は、いよいよ出家を決意した。

 妻のヤスも、「あなたがそれほどまで思うなら私は一生尼になった気で3人の娘を立派に育てあげます。また、近江屋も守りますからどうかあとのことは心配しないで修行して下さい」と同意したので、秘密のうちに出立の準備をととのえることになった。商売もひそかに縮小して女手でまかなえるようにし、帳簿類も整理した。事が世間に知れては猛烈な反対が出るのは明らかだった。ちょうどこの頃、第六帝国議会が開かれ、野党が政府を猛攻撃したため衆議院は解散された。また選挙だった。このため覚蔵は、昼は町の政治家たちと選挙運動にかけずり回って世間の人たちと調子を合わせ、夜中にこっそり妻と2人で準備をととのえた。



あどけないトシ、テイ、リウの3人の童女は、父親との永遠の別れのことを露知らず無心の寝顔をみせていた。

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