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北嶺回峰(ほくれいかいほう)の苦行僧 正井 観順(まさいかんじゅん)

釈迦しゃか様は2500年前にこのことを覚り、それらすべてに共通するのはとらわれる心、つまり煩悩にあるとし、すべてが変わりゆくという真理、諸行無常の真理を悟りなさいと仏教を開いたのだ。お前の名前は覚蔵だ。覚は悟りだな。蔵はお釈迦様の教えがいっぱいつまっているところ、つまり経典じゃ。お前は仏の道をきわめる運命をもってこの世に生まれたのだ。いつまでも遺産にこだわる心を捨てて、仏の教えを学ぶのじゃな。」
 いつしか覚蔵は、日中の仕事を終えるとお経を唱えることを楽しみにするようになった。また東京や京都から仏教の講義録や本をとりよせ勉強も始めた。家庭そのものは一家団らんで皆仲良く、何一つ不自由なかったが、覚蔵の心の底には出家したいという気持ちがだんだん強くなってきた。
 1891(明治24)年11月、覚蔵は尾上の店をたたんで黒石の中町に移った。商売は順調だった。しかしこの頃、黒石町を中心に津軽地方は政争が激しかった。1889(明治22)年に大日本帝国憲法が発布され、翌1890(明治23)年に第1回衆議院選挙が行われたが、この議会政治のあり方をめぐって青森県内には政府系と野党系の二つの政派が鋭く対立していた。とくに南津軽郡と北津軽郡では両派の勢力が優劣つけ難く、選挙運動は激しかった。覚蔵が黒石に移った1891(明治24)年は両派の争いがピークになっていた。覚蔵は宇野家の親戚であったので公民会(政府派の町内での呼び名)のため反対派の優勢な町内を必死に運動して歩いた。
 そんな覚蔵が、政治はでたらめだと大ショックをうけた事件が、翌1892(明治25)年2月に行われた第2回衆議院選挙でおきた。
 黒石町を含む南北両津軽郡の第2選挙区でも、黒石出身の民党系榊喜洋芽さかききよめが882票とり、政府系の鎌田政通にわずか10票の差で勝った。しかし、実際は鎌田が30余票差で勝っていたのを、郡役所が細工したことだった。鎌田派は必勝を信じ、餅をつき、みかんまで用意していた。得票が不審というので裁判をおこしたが、投票用紙が焼却されてしまっていたので、何の証拠もなかった。この他の町会、郡会の選挙にしろ、覚蔵にとってはあれを聞き、これを見るにつけ、情ないという思いがつのるばかりであった。しかし日中は義理がたくこまめに動きまわり、嫌な顔は一つも見せなかった。



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