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黒森山の 是空行者と寂導行者(ぜくうぎょうじゃとじゃくどうぎょうじゃ)

 二人は普通の人々にできない潔癖な生活を送っていたが、このように教え子には、自由闊達かったつに接したので、その学風を慕い、津軽一円から生徒が集った。
「黒森山浄仙寺」と山号、寺号が許された頃は、地蔵堂、不動堂、仁王門も完成し、池も掘られ、庭園も仕上がり、寺院としての輪郭りんかくもほぼできあがっていた。
 1872(明治5)年8月、学制発布にともない、黒森学校もこれまでと異なり、近代的学校として存続するには、役場で法律的手続き等が必要となった。それで黒森山から下山しない誓願をたてた寂導は、手続きなどを浪岡村から入門している三世寂静さんぜじゃくじょうにまかせ、隠居の身分となって子弟の教育に当たった。
 1885(明治18)年3月、黒森山の南の麓の井戸沢村を流れる小川堰に、一枚石の橋をかけたとき、村人たちのたっての願いで、寂導は橋の渡りぞめにのぞんだ。この小川堰は黒森山の賽の河原に接した一角であった。そのあと先、親、兄弟がなくなっても、黙々として行にはげんだ。
 1904(明治37)年1月、92歳で入寂にゅうじゃくするまで、師の蓮光是空とおなじく、ひたむきに信仰に身をゆだね、まれにみる清らかな一生をつらぬいた。 
 晩年のある日、黒森山の頂上にのぼり、足元にひろがる景色を眺めていると、いずくともなく紫の雲が、すうっと流れてきた。
 思わず寂導がその雲に乗ろうと、身をのり出したら、雲がさっと流れ去った。寂導は、そのまま雲に身をまかせ、西方浄土さいほうじょうどに行こうとしたのかも知れない。ひたすら信仰の道を求め、自在の境地に達した老和尚の姿を垣間かいまみる思いがする。
 米、塩を断ち、雑穀や、木の実、草の根を掘り食し、妻帯もせず、仏道にいそしむために生れてきたような、二人の清僧の一生は、暖衣飽食だんいほうしょくの現代の人々に、無言の警告を発しているような気がする。
 是空、寂導の法名は「大蓮社良海上人是空行者だいれんじゃりょうかいしょうにんぜくうぎょうじゃ」、「接蓮社良引上人寂導行者しょうれんじゃりょういんしょうにんじゃくどうぎょうじゃ」で、これは浄土宗名越派なごえはの総本山いわき(福島県)の専称寺からおくられたもので「行者」という二字が、師弟の生きざまを簡潔に象徴しているようである。
 二人の高僧は、霊地黒森山浄仙寺の一隅に、静かに眠っている。
    (執筆者 佐藤義弘)

 

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