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黒森山の 是空行者と寂導行者(ぜくうぎょうじゃとじゃくどうぎょうじゃ)

 信仰のかたわら、寺づくりのための師弟の努力がくり返されたが、寂導は悲鳴をあげるどころか、喜々として、是空に従い、是空を驚かせた。
 二人の山地での修行が方々に広まるにつれ、近くの黒森村、大川原村、中野村の人々の奉仕や寄進も多くなり、境内もそれらしく形が整ってきた。
 明治の初め頃「浄仙寺」という寺号も許され、二人のきびしい行と、高い学識が津軽一円に知られるにつれ、他宗派の心ない僧たちが、さまざまな教義上の難問をふきかけ、是空をやりこめようと来山した。これに対し是空は「拙僧せっそう」は、れ者で、ただ念仏をとなえるしか、術を知りません」と意に介さず超然としていたので、その風格に圧倒され、山を訪れる者、ことごとく心服して帰らなかった者はないといわれる。
 是空は比叡山の西塔さいとう、黒谷の聖人と仰がれた浄土宗の開祖、法然上人ほうねんしょうにんを誰よりも崇拝しており、是空のこのような態度は、法然の最晩年の言葉「只一うに念仏すべし」(一枚起請文いちまいきしょうもんを、そのまま地でいったものであった。
是空は浄仙寺開基以来、1876(明治9)年5月、78歳で入滅するまでの50年あまり、ただの一度も黒森山を下りることはなかった。
 1832(天保3)年、35歳で父九兵衛を病で失ったときも、一人悲しみをこらえ、粗末な庵で父の追悼供養ついとうくようを行ったといわれる。
 寂導は師是空の妥協のない信仰、高い学殖に心底から敬服していたので、その純粋な信仰生活を、少しのためらいもなく踏襲とうしゅうした。魚肉はもちろん、米断ち、塩断ちをし、雑穀を日々のかてとして、一筋に、仏の戒めを守り修行にいそしんだ。
 寂導はまた、彫刻に天賦てんぷの才能を発揮し、信者や、村人にこわれるままに小刀で仏像を彫って与えた。
のちに寂導の一刀彫りといわれた木像で、その数はおびただしい本数にのぼった。

 素朴だが気品にとむ作品が多く、素材としては、桐)、楓などが好んで使われている。
 製作中は、絶え間なく念仏を口ずさみ、そばに人がいることも、食事を忘れることもたびたびであった。
 木こりや猟師りょうしが立ち寄ると、お堂の前に腰をかけ、仏の道をわかりやすく説き聞かせ、荒くれ男たちが神妙な面もちで、かしこまっている風景がよく見られた。
 二人の評判が高まり、近くの村々から教えをこう青少年がふえ、これら子弟の教育も、課題の一つであった。
 一時期は塾生が100人を超え、年齢の幅も、上は30歳から下は10歳未満という年齢差があり、よその寺子屋には見られないにぎやかさがあった。漢字を覚えさせるため、机の脚のつけ根に浅い箱をつけ、灰を入れ、塾生に指で字を書かせ、書き取り能力の向上をはかった。
 勉強の苦手な塾生を選んで、よく温湯村の商店に買物をさせた。塾生たちは夏だと、山麓を流れる小川堰の清流にひたり、衣類と買物かごを頭上にゆわえ、水にたわむれながら、温湯村の入口の堤沢にたどり着くのが常であった。

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