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黒石の名家老 境 形右衛門(さかい ぎょうえもん)

 温湯に遊廓ゆうかくをつくったりして領外から客を集めた話は、安永年間(1772〜80)の『手本山形道中記』にも見えているから、初代形右衛門の施策と見てよいだろう。町堰をつくって「黒石に過ぎたるもの」と謡(うた)われたのも初代形右衛門の方である。
 馬乗りや盆踊りで人を集めた話は、天明の大飢饉の後のようだから、2代目形右衛門の献策によるものと見てよいであろう。
 馬乗りは、5月5日の節句の日と6月1日に、柵ノ木の山形街道(現在の国道102号線)で行われた競馬である。明治になってからは、馬場はりんご試験場の近くに移され、さらに追子野木の土場に移された。

 弘前藩の方では、自領の領民が黒石に集まるので、それを阻止しようとしたことがあった。馬乗りの乗馬を黒石領内に入れまいとして、弘前領と黒石領の境い目の通行口に、縄を張ることを黒石に命じた。形右衛門は一丈(3メートル)の高さに縄を張ったので、馬も騎手も縄の下を通ることができた。まるで、「一休さん」のとんち話のようだ。宗藩の指示に従ったふりをしながら、巧みにこれをかわしていたわけである。弘前藩のこうした経済封鎖も、黒石6代目の領主寧親が、弘前9代目藩主になったことで、自然と解消されていった。
 盆踊りは、七夕祭燈篭(黒石ではねぷたのことをこう呼んでいた)が終った後の7月13日から20日まで、盆中の満月の日をはさんで行われた。黒石の盆踊りは、2代目形右衛門の時代にあたる文化文政期に発達したといわれる。
 最初は夜に催された群衆の踊りであったが、文化文政(1804〜30)の頃から、町方5カ組(山形町組・鍛冶町組・中町組・上町組・元町組)で踊り子を出す「組踊り」が中心になってきたようである。もちろん、古い型をよく保っている「流し踊り」も行われていた。
 この「組踊り」と「流し踊り」が黒石盆踊りの特色で、天保の頃(1830〜43)から「よされ節」が人気を得て、これも黒石盆踊りの特色となった。近郷の弘前領からも農民が見物に集まり、町中大いににぎわった。

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