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黒石の名家老 境 形右衛門(さかい ぎょうえもん)

 1766(明和3)年1月、津軽地方を大地震が襲い、黒石領でも死傷者170人、つぶれた家・焼けた家575軒という大災害を受けた。明和の大地震である。
 形右衛門は、ただちに米蔵を開いて各家に1俵ずつ配り、5月には、江戸屋敷の方から金子きんす2000両と米1000俵を融通してもらって、被災者に米を分け与え、さらに被災者に2%の低い利息と4年の長期返済で金を貸し付けた。領民は大いに喜び、震災の復旧は急速に進んだ。一方、家臣に対しては、俸禄を1人1日4合の扶持米だけにして支出をひきしめた。「あっぱれ形右衛門」の評判は、旅行者が書いた『津軽見聞記』によって、江戸にまで伝わった。
 1773(安永2)年、形右衛門は婿むこ養子の藤兵衛に30石を分知し、堺の姓を境に改めた。形右衛門は政務のかたわら俳句をたしなんだ。俳号を現夢庵了静と称し、黒石の俳壇を指導し、益田木鴎などの弟子を育てた。彼の句は残っていないが、当時の津軽の俳壇の傾向から推して、洒落風の句風であったと思われる。才気縦横にしてユーモアと洒落に富んだ人であった。
 1783(天明3)年、東北地方を襲った天明の大飢饉の始まった年、形右衛門は自分の給禄200石と長子八百次郎の給禄30石を他の家臣に率先して黒石領主に上納した。

 

 同じ年の12月6日、境形右衛門は病気で亡くなり、円覚寺に埋葬された。享年は伝わっていない。恐らく50代であっただろう。
 以上が初代の境形右衛門のことであるが、彼は4代寿世ひさよ・5代著高あきたか・6代寧親やすちかの黒石領主に仕えたことになる。いずれの領主も、彼の才能を認め、存分に腕を振るわせた器量の大きい領主であった。
 このことは、2代目境形右衛門(八百次郎)にもあてはまることで、黒石領主には、人を見る目があったと言うべきであろう。後に2代目形右衛門を襲名することになる境八百次郎は、1783(天明3)年家督を相続し、ひきつづき大目付の役職を勤め、60石を支給された。
 天明の大飢饉もようやく終らんとする1787(天明7)年、黒石の元町一帯で思いがけない事件が起った。「黒石市家騒動くろいししかそうどう」とよばれる事件である。

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