ホーム文化財・遺跡>境 形右衛門(1/6)


黒石の名家老 境 形右衛門(さかい ぎょうえもん)


 
  “黒石に過ぎたるものは2つある。
        前の小堰こぜきに境形右衛門”


 この文句は、江戸時代後期、津軽地方で節をつけて謡われたものであるが、「前の小堰」というのは、黒石の町を流れる町堰のことで、境形右衛門が家老をつとめていた時代に開削された。
 私が子供の頃は、この町堰の水の音を聞きながら、眠りについたものである。
 この町堰にしろ、町を挙げての「盆踊り」にしろ、「馬乗り」にしろ、弘前とはまたひと味違った“あずましい”独特の小世界をつくったのは境形右衛門の思い切った施策によるものであった。
 ところで、黒石の名家老といわれた境形右衛門は、実は一人ではなかったのである。襲名によって、初代から3代目まであるわけだが、ここでは、
初代の境形右衛門と2代目の境形右衛門のことを語ることにしよう。
 境家が黒石に住みついたのは、津軽信英のぶふさが黒石に分家してきた頃(1656年、明暦2年)より少し前のことで、当時は北山田の姓を名のっていた。
 初代の北山田源十郎は、はじめ弘前藩の「村老むらどしより」(黒石村の村役人)であったが、1666(寛文6)年黒石2代領主津軽信敏のぶとしに召し出され、給米30俵、金蔵役に任ぜられたという。2代庄兵衛も同じ給米で同じ役を勤め、北山田を堺と改姓した。3代堺藤兵衛、4代堺藤兵衛(襲名)も同じ役を勤めた。5代堺源右衛門は、4代藤兵衛の弟で、知行30石に召し直され、蔵奉行を仰せつかった。6代目が形右衛門である。この形右衛門のときに、「堺」の姓は「境」に改められた。
 1750(寛延3)年の黒石の「分限帳」には、平内目付格で金蔵方を勤め、三人扶持ぶちとある。この頃は形右衛門の父がまだ現役であったので、三人扶持(三人扶持は1日1升5合の支給)であったのであろう。その後、家督を相続し、勘定奉行から用人に登用され、さらに家老に昇進した。役高(江戸時代、役職の高下に応じて支給される禄高)と合せ知行高(所領を支配すること)は230石となった。

(1/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る