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田山堰を開いた 田山 藤左衛門(たやま とうざえもん)

 伝承では使役が苛酷で、かくれた犠牲者もあったという。犠牲を無駄にしないためにも、藤左衛門は一層気をひきしめて石山に挑んだ。そして、信念は岩をも貫いたのである。13キロメートルの水路工事を、3〜4年で完成できたのは、設計が正しかったことと掘り抜くという不動の信念、そして農民たちが苦しみに耐えて休まないで掘り続けたその根気によるものであった。苦労が大きかっただけに、田山堰の恵みは時代が進むにつれてますます大きくなっていく。
 浪岡組六郷地域の開田は、1684〜87年の貞享年間に113町歩であったが、1801〜3年の享和きょうわ年間には142町歩(1町歩は約1ヘクタール)に増えている。 
 一方、黒石領の山形地域の村々は、1660(万治3)年に完成した田山堰(黒石領では小川堰と言った)の幹線水路から次々に分水し、山麓部の開田を進めた。1678(延宝6)年頃には、惣兵衛堰そうべえぜき・田ノ沢口(いずれも中野)、惣一郎堰・覚左衛門堰(いずれも花巻)、堤沢口つつみざわせぎ(温湯)、境沢口(下山形)、惣十郎堰(石名坂)などの分水堰ができており、1683〜87(天和3〜貞享4)年の間に、下田堰・牡丹平堰・姥懐堰うばふところぜき(いずれも牡丹平)の3筋の新しい分水堰が完成した。 田山堰からの分水によって、山形地域の開田面積は、1850(嘉永3)年までに81町歩に及んだ。
 山形地域の村々が田山堰に分水口をつくって取水するようになると、当然起きてくるのが下流の六郷地域の村々との水利をめぐる争議(水論)である。『田山堰沿革史』には、1687〜88(貞享4〜5)年頃の水論の時の農民たちの口書が紹介されているが、争点になっているのは、分水口の寸法の問題であった。
 この水論は、明治になっても続く。最初に紹介した長坂の石碑の脇に刻んである各取入口の寸法は、水論の時の判断の基準ともなったわけである。

 さて、田山堰の工事を終えた後の藤左衛門はどうなったのだろうか。藤左衛門に関する数少ない断片的な記録から推測してみることにしよう。
 「津軽家御定書」という史料によれば、1668(寛文8)年当時、田山藤左衛門は弘前藩の御金奉行をつとめていた。御金奉行というのは、勘定奉行の支配下にあって、金銭の出納事務にあたる役職である。田山堰開削の功績によるものであろう。御金奉行をいつからいつまで勤めたかは不明であるが、堰の工事が終ってからだから、早くても1661(寛文元)年からであろう。終りの方は、長く勤めたとしても、1680(延宝8)年までである。
 御金奉行を退任した後、藤左衛門は郡奉行こおりぶぎょうを勤めている。「永禄日記」という文献によれば、1682(天和2)年に郡奉行を退任している。郡奉行は定員3人で150石の禄高ろくだかである。生産の増大をはかり、年貢米を徴収する役目である。その下に代官がいた。
 こうしてみると、田山藤左衛門という人は、土木→会計→農政という内容の違うさまざまな仕事を次々と成し遂げてきた器用で勤勉な仕事人という感じがする。何をやらせてもきちんとやり遂げるものだから、仕事が切れることはなかった。
 藤左衛門の最後の仕事は、六郷に近い所にある北黒石4ヵ村(飛内・小屋敷・馬場尻・下目内沢)に関する仕事であった。
 1689(元禄2)年、黒石津軽家の分家に後継ぎがなく御家は断絶し、分家の知行地1000石は幕府領(天領)となった。1000石の内訳は、北黒石の4ヵ村500石と上州(群馬県)の飛び領500石である。飛内・小屋敷・馬場尻・下目内沢は1689(元禄2)年から1698(元禄11)年までの9年間天領であったわけだが、その間の年貢徴収の事務は、本家の黒石陣屋ではなく、宗家(大本家)の弘前藩に委託された。

 

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