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田山堰を開いた 田山 藤左衛門(たやま とうざえもん)

 1650年代の明暦年間、津軽平野の開発は急ピッチで進められていた。現在、青森県の穀倉地帯といわれる西津軽郡・北津軽郡の岩木川下流地帯は、この頃開発された。六郷に派立・派立子という通称の地名があるが、それは、この頃の開田事業の名残りである。六郷の藩営による開田を指導するために、弘前藩から派遣されたのが田山藤左衛門である。藤左衛門の妻は、三代藩主信義の二女であったところからして、普請ふしん奉行とかの責任ある役職に任ぜられたのではないだろうか。いすれにしても、父と子の心の交流の温かさが共感を呼ぶ。1887(明治20)年黒石尋常小学校入学。同級生に後年、口語歌人として名をなした鳴海要吉がいる。1897(明治30)年青森県第一尋常中学校(現在の弘前高等学校)に入学。卒業後、東京専門学校(現在の早稲田大学)英文科に入学した。1902(明治35)年20歳の春である。
 六郷地帯は、それまで長谷川ながいさわの沢水を集めたり、十川とがわの自然流水を使用したりして、いくばくかの水田を営んでいたが、開田のためには新たな水源を見つけ、水利の便をはかる必要があった。新たな水源として、田山藤左衛門たちが目をつけたのは、年中水量の豊かな中野川であった。よく考えてみれば、これは先見の明がある素晴らしい計画であった。
 中野川から六郷までは13キロ(約3里)もあり、開削工事は大変苦労するわけだが、そこを流れてくる水は、日にあたって適度に温められ、作物の成育に大変良い結果をもたらすことを、藤左衛門はよく知っていた。
 「工事はつらいが獲物は大きいのだ。」といつも自分に言い聞かせながら、藤左衛門は計画を具体的なものにしていった。

 まず、この計画では、黒石領内に取水口を求めることになるので、初代の黒石領主津軽信英の承諾を得る必要があった。幸い、津軽信英は弘前四代藩主津軽信政の叔父にあたり、信政の後見人でもあったので、何ら問題なく認可された。信英にしてみれば、この堰の途中から分水すれば、山形の村々の開田も可能になるのだから、むしろ、藤左衛門を励まし、協力すべきだと考えたかもしれない。
 工事を開始するまでの藤左衛門の調査活動や計画書づくりの苦労話は、何も伝わっていないので、想像してみるしかない。堰の取水口を井戸沢の所に定めるまでには、何回も何回も慎重に調査を重ねたことであろう。自然流水で六郷まで、できるだけゆるい勾配こうばいで水を運ぶにはどうしたらよいのか、また放水路をどこにするかが検討され、さらに地質の調査もなされたはずである。工事を始める前の設計が、工事の成功・失敗を決めることになるので、藤左衛門以下の担当者たちは、精力的に山野を調査し、図面をつくっては検討を重ねたにちがいない。
 
 

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