ホーム文化財・遺跡>津軽 信英(5/6)


黒石初代領主 津軽 信英(つがる のぶふさ)

 平内の部50人の名前を見てみると、名字を持っているのはわずか5人で、ほとんどが、この時に士分に取り立てられたことがわかる。
 平内の家臣達の知行高も、大半が黒石と同じ15石である。
 黒石でも平内でも、この頃の家臣は、少ない知行高でつつましく暮らしていた。
 1656(明暦2)年10月、信英は江戸に出府し、4代将軍家綱いえつな拝謁はいえつして熊の皮や太刀を献上し、ふたたび国元に帰ってきた。
 幕府旗本の役目、弘前藩の後見人の役目、黒石領主の役目という3つの役目を果たさなくてはならないので、相当忙しい。
 上州の飛び地にも立ち寄ったりしたであろうが、大館には弘前藩の足立源左衛門が代官として勤務していたので、引き続き本家に管理をお願いしたようである。
 1656(明暦2)年12月、3代藩主信義のために建てた弘前新寺町の報恩寺の本堂が落成した。翌年報恩寺には寺領として300石を与え、米100俵を寄付し、兄の菩提ぼだいをとむらった。
 1657(明暦3)年4月、信英は津軽家の家訓を弘前藩の頭役かしらやくの人々に配布した。
 1661(寛文元)年6月、信英は弘前藩の日記である藩庁日記をつけさせた。弘前市の宝ともいうべきこの藩庁日記は、信英の命によって始まり、幕末まで毎日欠かさず書き続けられた。

 同年6月、信英は、家臣・領民に対して諸法度しょはっとを制定した。
 その内容は、親孝行の子どもの表彰、学問・武芸の奨励、訴訟の方法、質素倹約、五人組制による自治などで、武力によって国を治めることよりも、道徳的な内容が多い文治主義的な信英の政治姿勢をよくあらわしている。
 この年の5月、4代藩主津軽越中守信政は、初めて国元に下った。
 甥の信政ももう16歳になっていたので、後見人の役目も終わりつつあった。
 信政が江戸を発つ時、山鹿素行を1万石で津軽に迎えようとして果たせなかったが、この発案は信英から出たものといわれている。
 1662(寛文2)年、江戸から帰国した信英は、久しぶりに平内地方を巡見した。その直後黒石で風邪にかかり、弘前城に移って治療したが、ふたたび立ち上がることかなわず、9月22日弘前城内で43歳の生涯を閉じた。
 信英の葬儀は、本人の遺言によって、黒石陣屋で儒教を以て行われ、僧は入れなかった。
 信英の遺骸は、黒石陣屋の東南の隅にびょうを建立して埋葬された。現在の黒石神社である。
 黒石神社は、初代信英の墓所なので、昔は御廟ごびょうとよんでいた。

※廟→祖先の霊を祭る所。霊屋。

(5/6)
次のページへ

前ページへ戻る ホームページへ戻る