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黒石初代領主 津軽 信英(つがる のぶふさ)

 黒石が一万石の藩になるのは1809(文化6)年であるが、信英分知の時から、その資格を備えていた。領地の具体的な内容が決まって信英は陣屋の場所を選んだり、町割をしたりする業務に入った。信英が黒石村へやって来た頃、黒石村にはすでに10町の町並ができていた。このことは黒石市の文化財に指定されている明暦2年の検地帳で証明できる。
 明暦の検地帳には、寺町・浦町・横町派よこまちはだち・上町・本町もとまち(元町のこと)・古町こまち(百姓町のことか)・おいた町(大板町のこと)・徳兵衛町派とくべえまちはだち・新八町(どこにあたるか不明)・派町はだちまち(中町・浜町のことか)などの町名が見られる。
 "派"のつく町は、1656(明暦2)年頃にできた新しい町であろうが、それ以外の町はだいぶ前からあった町である。
 さらに、黒石村には、信英が来た時、寺院が5つもあった。来迎寺らいごうじ妙経寺みょうきょうじ感随時かんずいじ保福寺ほうふくじ愛宕地蔵院あたごじぞういんなどである。
 黒石村といっても、町のような状態になっていたわけで、そこに十郎左衛門信英がやって来た。
 信英の行った町割(町づくり)というのは、すでにあった町並に、侍町(現市ノ町)や職人町(現大工町や鍛治町)を継ぎ足したものであった。
 さて、黒石陣屋は、現在の内町一帯に築かれたわけだが、陣屋構えといって、2階のない平屋造りであった。
内町一帯を陣屋に定めたのは、信英の考えであったと思うが、町づくりとの関係をよく考慮している。

  
 陣屋築造の時点で、黒石村の西北側の方にはすでに町並ができていたわけだから、これから開けていく東側との接点を陣屋に選んだわけである。賢明な場所の選定であった。
 1656(明暦2)年の4月下旬から1657(明暦3)年にかけて信英は忙しい日々を過した。
 自分の領地である黒石・山形・平内の検分、黒石陣屋造営と町づくりの指図、そして家臣団の編成の仕事であった。
 1656(明暦2)年9月17日、信英が知行状を与えた家臣は、黒石の部30人、平内の部50人であった。
 黒石の30人の家臣であるが、その多くは黒石村・野木和のぎわ村・株梗木ぐみのき村・飛内村・山形村在住の者であり、名字をもたない者が11人もいる。おそらく、この時、士分(武士の身分)に取り立てられた者であろう。
 30人の知行高は、9石が一人で、他はすべて15石である。知行高15石というのは、15石の生産高の知行地を与えられるということで、作人に耕作させている場合は、その6割くらいしか自分の収入にならないので、自分で「手作り」をしている武士もいた。



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