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黒石初代領主 津軽 信英(つがる のぶふさ)

 信義は信英の一つ年上の兄であるが、何かと文武に優れた弟と比較されるものだから、劣等感があって酒ぐせが悪くなったといわれる。しかし、信義は信英を頼りにもしていた。信英に1000石を与えたことも、後継の平蔵(信政)の教育を信英にゆだねたことも、御家騒動のことを不問にしたのも、弟に対する信頼のあらわれであった。
 この“じょっぱり殿様”も、1655(明暦元)年11月、江戸神田の上屋敷で急病に倒れた。享年37歳。
 翌1656(明暦2)年2月、幕府は津軽平蔵信政を、4代目藩主として信義の後をぐことを条件付きで認めた。
 その条件とは、信政がまだ11歳なので、叔父の信英を後見人とすること、信英には弘前藩4万7000石のうち、5000石を※分知するということであった。信英は、幕府から与えられていた300俵の蔵米を返上し、兄信義から支給されていた1000石の合力米の知行地も新藩主信政に返納した。
 4月初旬、幼君信政を江戸に残し、信英は津軽に出発した。10年以上も留守にした津軽で新しい人生が始まるのである。時に36歳であった。
 4月26日、弘前城に到着し、ただちに政務を開始した。まず解決しなければならない大問題は5000石の領地問題だった。このことについては次のような伝承がある。
 信英は初め、青森を含む外ヶ浜(陸奥湾沿岸)一帯を希望した。ところが津軽百助ら家老は同意せず、他の土地を望まれよと回答した。それで次に賀田よした(現岩木町、旧大浦城所在地で津軽氏興隆の地)を望んだところ、これにも難色がしめされ、そしてとうとう黒石、平内に上州領を加えた地域が決定したという。

※分知→分け与えること。
 しかし「黒石市史」<1987(昭和62)年黒石市発行>はこの伝承を伝説として否定している。「市史」は領地について百助信隆ら本家重臣に選定を任せたという。当時の黒石村とは、北は馬場尻村、目内沢田村、西は堂野前村、高田村(ともに現田舎館村)、東は石名坂村に接する広い地域で上黒石村、下黒石村、黒石御派みはだち町の3区域に分かれていた。これに浅瀬石川流域の温湯村、不動館村、板留村などの山形村領分を入れて2000石、他に外ヶ浜の平内領分の1000石、それに上州(現群馬県)の大館村ら6カ村の2000石で計5000石だった。領地が正式に決定したのは8月初旬であった。
 もちろん5000石といっても、それは幕府が定めた公定生産高(表高という)であり、現実の生産高(実高という)は1万石を超えていた。黒石、山形領は当時18カ村で、実高は5990石であった。村数はこの後どんどん増えていく。平内領も当時18カ村で実高は2900石であった。小湊村に代官所を置いて統治した。 上州の2000石というのは現在の群馬県新田郡、佐波郡にある新田町にったまち尾島町おじままち境町さかいまちの範囲で、当時は6カ村であったがのち8カ村になる。中心は大館おおたちでそこに代官がいた。

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