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黒石初代領主 津軽 信英(つがる のぶふさ)

しかし、山鹿素行の儒学は古学派といって礼よりも武士道を説く日本的なものだった。信英は、兵学、儒学とも当時江戸最高の学者について学んだのである。
 そればかりでなく、剣は一刀流の梶新右衛門かじしんえもん、槍は山本加兵衛、弓と馬術は吉田八条流をきわめ、文学は京の清水執行しつぎょうを師とした。甥の弘前4代藩主信政やその弟の政朝まさともらを山鹿素行の門弟にしたのも信英だった。
 素行が病にすと、深く師事していた信政は枕元で看護した。素行の娘むこ2人は津軽藩の家老となった。津軽武士の魂には、素行の説く武士道が形式的な儒教を超えて流れていた。
 江戸最高の師のもとで修行に励む若き信英の姿は、当時の武士の理想の姿であった。それだけに、国元では信英を藩主にたてて、3代藩主信義を隠居させようというくわだてが重臣たちの中から起こったのももっともなことであった。1647(正保4)年の正保御家騒動しょうほうのおいえそうどうである。
 3代藩主の信義は十三湊港口とさみなとみなとぐち切替工事、尾太おっぷ鉱山の開鉱、新田開発など治世の業績に見るべきものがあったが、激情家で酒乱でもあり、「じょっぱり殿様」の異名をもっていた。気に入らない家臣を手討ちにし、残忍な藩主として家臣たちの恐怖の的になっていた。
 「殿の乱行らんぎょう御公儀ごこうぎ(幕府)に知れたら、とりつぶしになるのでは……」という不安が、重臣や信義の弟たちの間に出て来た。
 「あのお方が殿様であったらなあ」という願望は藩内に共通したものとなった。
 しかし、この信義排斥はいせきの企ては裏切りによって発覚し、流血の処分となった。この時、信義の実弟たちも切腹や流罪るざいの処分を受けたが、擁立された信英と次弟の百助信隆ももすけのぶたかには何の沙汰さた( 処分) もなかった。信英は幕府旗本なので、うかつに手を出せなかったということであろうし、百助は自分から騒動を起こしたのでなく、むしろ企ての情報を信義にもたらした功があったからであろう。
百助は沈勇ちんゆうの士で、お家第一と考える人で、後に兄の信英に5000石を分知する時、その領地を黒石、平内、それに上野国大館こうずけのくにおおたち(現群馬県)としたのは百助だった。

※沈勇→沈着冷静で勇気があること。

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